アンティバース、アウターリム

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Endgame Study 13: 破壊の脱構築『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』

 Endgame Study 13

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ

 

 

『エイジ・オブ・ウルトロン』の惨禍は、ユニバースに大きなダメージを遺し、さらなる悲劇をもたらした。

約8年間、ヒーローの誕生と成長、そして挫折を繰り広げてきたMCUは、ついにその爆弾に火をつける。

フェーズ3の幕は、彼らの行動の裏に積み重ねられてきた負の遺産にヒーローが向き合わねばならない状況をもって開かれた。

 

『シビル・ウォー』がどんなジャンルに分類すべきかというと、なかなか難しい。

協定をきっかけに割れるアベンジャーズの裏で動くジモの謀略や終盤で明かされるバッキーの真相などは、ルッソ兄弟の言う通りにデヴィッド・フィンチャーの『セブン』のようなサイコ・スリラー的であるが、今作のストーリーラインはキャプテン・アメリカシリーズの第3作目であるキャップとバッキーの関係性はもちろん、直前の『エイジ・オブ・ウルトロン』や『アントマン』、そして8年前に公開された『インクレディブル・ハルク』を踏まえたものであり、それらを抑えなければ完全にキャラクターや世界の動向を把握するのは困難である。また今作は、ブラックパンサースパイダーマンなど、新たなキャラクターのイントロデュースも兼ねている。

ただ、それだけなら作品間の橋渡しを担う作品としての機能として終わるのだが、今作は前作の『エイジ・オブ・ウルトロン』で生じながら結局うやむやに終わったアベンジャーズのウルトロンへの責任問題を引き継ぎながら、その問題を解決案を“提示するのみ”に留まり、協定への最終的なスタンスが定まらないままに(なんせ最後にはトニーもウィンターソルジャー軍団の討伐の為に協定のことを無視して動く)最終的にアベンジャーズの分裂に帰結するというのは、問題を解決するどころか新たな問題を生じさせた感がある。はっきり言ってしまえば今作のやっている事はいわゆるブン投げなのだが、それでも鑑賞後は謎の爽快感と達成感がある。残酷な真実とそこから凶行に走りかけるヒーローを目撃したのに、だ。

 

『シビル・ウォー』はMCUMCUであることに、壮大なサーガとして前作から続き、そしてその後のストーリーも語られ続けていくというフォーマットに依拠している。そしてだからこそ、今作のような映画はMCUでしか成し得ない。

 

これ以外にも、『シビル・ウォー』にはジモの計画のずさんさなど、よく考えると変な要素が多い。それでもこの物量に圧巻され、そしてそう見せようとして実際にそう見せてくるこのディレクションには感嘆せざるを得ない。

ルッソ兄弟の“脱構築”は、今作でも遺憾なく発揮されている。彼らは大きなリレーのチェックポイントを担うストーリーテラーとしての才がすさまじい。今作のBlu-rayに収録されている音声解説を聞けばわかるのだが、彼らは現在の観客の鑑賞リテラシーを完全に理解し、それを実際に作品内で最大限利用している。

 

MCUの大きな魅力の一つに現実の時間と共にキャラクターが成長してゆき物事が進むリアルタイム性があると思うのだが、ルッソ兄弟の語る物語「脱構築」は、そのリアルタイムにおける現実のそれと等しく事件であり、観客に大きな衝撃を与えると共にその瞬間瞬間の印象を強くさせる。このリアルタイム性は、時にキャラの感情への同一性を生むだけでなく、ソコヴィア協定への是非、そしてスティーブの行動についての議論など、現実世界にいるはずの我々もユニバースの住民になったかのような実感すら作り出す。

 

 

 

『インフィニティ・ウォー』後に観る『シビル・ウォー』は、公開当時とはまた違って実に味わい深い。

ここには彼らが何故負けたのか、が語られている。

 

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まず、やはりアベンジャーズが分裂したことに尽きるだろう。

そもそも『シビル・ウォー』が何故『シビル・ウォー』だったのかというと、やはり『インフィニティ・ウォー』で負けさせるためだったとしか思えない。世界の為なら、協定に賛成しようが世界に背を向けようが、やはり彼らは団結して戦うべきだったかもしれない。

 

子どもであるピーターをこの内戦に連れてきたトニーの罪もまた大きいかもしれない。

ティーブがバッキ―とハワードの件をトニーに伝えなかった(どう伝えればいいんだという話もあるが)のも罪が大きいかもしれない。

 

結局、『シビル・ウォー』は完全無欠で嘘を嫌っていると思われていたスティーブも、親友と自分のために嘘をつき、隠し事をしてしまうことを示す作品だった。

 

しかし、これらの過ちも、すべてたった一つの可能性に繋がっている。

 

ルッソ兄弟は破壊をすることでストーリーを紡いできた。彼らはどのようにその1つへと結実させるのだろうか。

間違いも成功も肯定する、たった1つの成功が楽しみで、また怖くて仕方ない。

 

 

余談ONE SHOT:マーベルスタジオズ/シビル・ウォー

ドクター・ストレンジ』からマーベルスタジオズ(日本での公式名称はマーベルスタジオだが自分は自分なりのリスペクトも込めてこう呼んでいる)のファンファーレとロゴが変わったのは気付いていただろうか?

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おおまかな変遷はこんな感じ。

かなり大まかな真ん中からフェーズ1、フェーズ2、そしてフェーズ3といった具合だ。

 

今となっては懐かしいフェーズ2のファンファーレは『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』の時にお披露目された。作曲は同作のスコアも担当したブライアン・タイラー。何故『ダーク・ワールド』で刷新されたのかというと、『アイアンマン3』まではパラマウントが出資していたこともあって冒頭にはパラマウント社のロゴがアタッチされていたのだが、マーベルがディズニー傘下になり『ダーク・ワールド』がはじめてのマーベルロゴのみになったからであるということだそうだ。(となると同じような状況のルーカスフィルムになんの新規ファンファーレが無いのはちょっと寂しいが……)

 

現在のロゴとファンファーレはマイケル・ジアッキーノの厳かな音楽とともにコミックのモンタージュ、そしてフューリーの「There was an idea...」のスクリプトからアイアンマンやブラックパンサーなどのおなじみのヒーロー達のコンセプトアートが並び立ち、ファースト・アベンジャーことキャプテン・アメリカのシールドスローとMCUの代表的な“コミックから実写に翻案した風景”であるアスガルドランドスケープとともに数々の本編映像がMARVEL STUDIOSのロゴに装飾されるという、最も重要な原案であるコミックから脚本、コンセプトアートなどのプリプロダクションを通し実際に映画となっていくというスタジオの仕事の過程、コミックが映画になっていくさまを30秒超に濃縮した実に素晴らしいファンファーレだ。

 

ドクター・ストレンジ』以降マーベルスタジオズは作家主義・製作者主義を前面に押し出しており、この印象深いファンファーレだけでなく、その姿勢はホームメディアであるBlu-rayに『ストレンジ』以降監督によるイントロダクションが欠かさず収録されたり、そしてその裏───例えばフェーズ3以降強化されたヴィランの描写など──クリエイティブ面にかなりの自由が利くようになった。

 

で、彼らがフェーズ3において製作面のイニシアチブを掌握できたのにはちゃんと理由がある。

 

マーベル・エンタテインメント社の映画部門としてスタートしたマーベルスタジオズ(八足当初はMarvel Films)は、製作上に悩みを抱えていた。

 

マーベル・エンタテインメント本社のクリエイティブ・コミッティーがそれだった。

 

マーベル本社のチェアマンであり、トランプ政権にもコネクションを持つアイザック・パルムッターを筆頭とするこの委員会は、マーベルのライターや編集者、そして玩具会社達によって構成され、マーベルスタジオズの作品の監修や舵取りに少なくない影響力を持っていた。

コミッティーは『GotG』からあの代表的な70年代ポップスを消すように提案した、と言えばその監修の方向性がわかるだろうか。

 

ファイギは『ブラック・ウィドウ』や『キャプテン・マーベル』などの女性主人公のヒーロー映画を『ワンダーウーマン』が成功を収めるずっと前から製作したがっていたのだが、「女ヒーローの玩具は売れない」とするパルムッターの反対により、彼の望みは後手へと回ることになった。

 

 といった具合に軋轢が生じていたこの関係だったが、2015年『アントマン』の公開後にマーベルスタジオズはマーベルからディズニーに、ケヴィン・ファイギはパルムッターからディズニーのアラン・ホーンの下へと移り渡った。

そしてその後の更なる飛躍は見ての通りである。

 

なお、2019年現在においても、パルムッターはマーベルのチェアマンであり、『エージェント・オブ・シールド』や『ランナウェイズ』、『ディフェンダーズ』などのマーベル・テレビジョンとそのヘッドであるジェフ・ローブは彼の下で製作している。

 

ただ、忘れてはいけないのが、そんなパルムッターの下でもマーベルは多様性のある素晴らしいコミックを日々刊行していることだ。結局彼の狙いはよくわからないが(金を稼ぐことしか考えてないのかも)、それでもマーベルは映画だけでなく、ドラマも、そしてメインであるコミックも、素晴らしい仕事を常に続けている。

 

ファイギはアイデアはすべてコミックにある、と語るが、実際にコミックづくりと映画づくりにはやはり違いがあるのかもしれないのがこれら一連の流れで感じてしまう。餅は餅屋なのかも。

 

パルムッター期を経たマーベルスタジオズ作品は、ルッソ兄弟を筆頭に、タイカ・ワイテティ『ラグナロク』、ライアン・クーグラーブラックパンサー』の持つ作家性からわかるように各々の監督の持つビジョンを更に強めている。ゴールである『エンドゲーム』も楽しみだが、そのレールから解き放たれた時、たとえば『ザ・ライダー』で絶賛を浴びた独立系映画出身のクロエ・ジャオが監督する『エターナルズ』など、どのような映画が創られ、ユニバースがどんな広がりを見せるのかも非常に楽しみなのだ。