アンティバース、アウターリム

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僕なら、鉄条網を…/the END of the line: 『アベンジャーズ/エンドゲーム』中編

 

大変ご無沙汰しております。中編です。はい…

なお、あらかた前もって書いていて、詰めたい部分は残してしっかりリサーチして書こう…と思っていましたが、現時点では(3/8までにいったんのケリをつけたいがため)断念しました。ところどころ繋がらない記述が残っているのはそのためです。本当に申し訳ない

 

<前編はこちら>

ONE YEAR LATER.../the END of the line: 『アベンジャーズ/エンドゲーム』前編(仮) - アンティバース、アウターリム

 

 

 

犠牲というシステムの限界

ここまでは主に、『エンドゲーム』の目玉テーマのひとつであった「時間」をメインに触れてきた。では、そろそろもう一つのメインテーマに向き合うべきだろう。それは「自己犠牲」。そしてその描き方こそが、個人的に納得のいかなかったところでもあった。公開からはや1年以上が経過している(これは自分がちんたらしてたからなんだけど…)。

 

 今再び、『エンドゲーム』に思いを馳せるためには、この納得できなかったという事実について、何故モヤモヤを抱いたのか、何を期待していたのか、何が「機能していなかった」のか、自己分析をするべきだろう。「時間」をもとにMCUが捧げたオマージュ元やヴィジュアル、ルッソ兄弟フィルモグラフィーなどからみる時空間の表面をなぞる考察を試みた前編とは違って、中編の今回はかなり個人的な分析と解釈の吐露を行うことになるかもしれない。ご容赦願いたい。

 

まず、公開当時ふせったーで書いていた所感を原文ママで掲載する。

アベンジャーズ/エンドゲーム』に関して、どうしても納得が出来ないところが一点だけあって、何故ナターシャが命を落とすことになったのか、そこだけがどうにも自分の中で腑に落ちない。

『インフィニティ・ウォー』でキャップはヴィジョンの自死による世界の防衛の提案を「命に大小はない」として退けた。サノスは命を「大小のあるものとして」天秤にかけて他者に犠牲を強いることによって彼の望む世界の創生に成功した。

『インフィニティ・ウォー』でのこの両者のスタンスの違いは勝敗を決め、サノスは勝利し、アベンジャーズは敗北する。

この大敗からの勝利には、命に秤をかけて目的を遂行しようとするサノスの行動へのNO、命を命で救うという犠牲という存在の否定が必要不可欠だったと思っている。

で、『エンドゲーム』でナターシャは自らをソウルストーンの為に犠牲にする。結局のところ、命を差し出して命を救う行動に出た。(サノスは圧倒的な他者犠牲でありナターシャの場合自己犠牲であるという違いはある)

これが、もうどうしても受け入れられないというか、ヴォーミアに着いた時からいやいやいややめてくれ本当にマジで頼むからと冷や汗が止まらなかった。

ともかく、他にソウルストーンを手に入れる方法をなんとかして模索してほしかったなと。犠牲を強いて勝利したサノスに勝利する為に、犠牲を生むのはどうだったんだろう。

ただ、やはり先ほど書いたようにサノスは他者に犠牲を強いる。それと違ってナターシャとトニーは自らを犠牲に差し出す。ここにスタンスの違いは示されている。だけになんだか余計にモニョるところもある。

という感じ。「いやまぁわかるけど…」てな感じで、肯定とも否定とも言えない、言わないようなのが自分らしいなとおもいました(クソ自己嫌悪)

 

 

 

ご存じの通り、『エンドゲーム』には衝撃的な自己犠牲が2つ用意されていた。

 

 MCUの精神的な中枢であるスティーブ・ロジャースのオリジンが自己犠牲によって完成されたように、今までのMCUは多く「自己犠牲」を標榜してきた側面がある。

よって、『エンドゲーム』の自己犠牲的行動についてより深く考えるために、マーベルスタジオズ作品における自己犠牲描写を「他者のために、命を差し出したり、戻る可能性が極端に低い状況で自らの死あるいはそれに準ずる不可逆的な被害を覚悟して行動する」というシーンの有無と差異を、自分なりに考えてみた。

 

『アイアンマン』のインセンやトニー自身、『マイティ・ソー』でのデストロイヤーを前にした力の無いソー、『ファースト・アベンジャー』のスティーブ、『アベンジャーズ』のコールソン…。

 

MCUの英雄譚には、自己犠牲がつきまとう。

 

 

これらの自己犠牲行動は多くは「死を覚悟」しているものの、死なない可能性も極僅かながら存在していると言えなくもない。

ヴォーミアのナターシャがこれまでと違うところは、「自らの死」と「他者の生存」がまったくのトレードオフの上で成立しているからではないだろうか。前者が起こらない限り、後者は起こり得ない、シーソーが発生している。これは『Vol.2』のヨンドゥと『インフィニティ・ウォー』のガモーラとヴィジョン(もっとも、この二人は仲間である他者に自らの命をゆだねている)のみである。

 

 

『インフィニティ・ウォー』での'We don't trade lives.'「命に大小はない」と、『エンドゲーム』の'Whatever it takes.'「すべてをかけて」の二つのセリフはどうだろうか。

 

 

「命に大小はない」とキャップが言った時、自分は「おお」と思った。MCUは、というよりも古今のヒーロー映画は、自己犠牲による英雄性の獲得を物語の柱としていた部分が多い。この物語構造が定式化しているジャンルのなかで、命を命で交換しない、とキャップに言わせた。自分は自己犠牲構造の否定を見せてくれるのかと思ったのだ。

 

自らの提唱する極端な理論のもとで命で命を交換したサノスに対し、ヴィジョンからマインドストーンを安全に分離するように選択肢を探したアベンジャーズは、彼の言うdon't trade livesを実践しようとしていた。

 

ただ、自分自身の解釈が結構な暴投を放り込んでいたとも思っている。当時、自分はヴィジョンを殺害してしまってもサノスが勝利したことなどから、そもそもアベンジャーズはtrade livesしてはいけないのである、と解釈していたのだ。

結果として彼らは敗北したのだし、その敗北が5年間の閉塞的なギャップを生むことになる。

 

また、このような解釈をするに至った理由に、『インフィニティ・ウォー』での敗北の要因──ガモーラを殺害したサノスに対するスター・ロードの怒り、ヴィジョンのマインドストーンを早々に破壊しなかったことなど、アベンジャー側の「甘さ」が招いたその敗北こそが、ストレンジの見た勝利への道筋であり、「We don't trade lives.」にもとづく倫理的な行動による回りまわった勝利であると考えていた(というか、今もそっちの方が良かったでしょ、と思っていないことはない)。

 

11年の節目の『エンドゲーム』で、自己犠牲の否定を成してほしかったという気持ちは大きい。

 

そこには、2019年の他の作品(国内のアニメである)*1、そして「完結編」としての先達である、とある作品の思想が大いに絡んでいる。

 

その先達こそ、『ダークナイト ライジング』である。

ダークナイト ライジング』は、自分が考えていた「We don't trade lives」の理想像だった。自分は、この「lives」に生命だけでなく、「生活」の意も含めるべきだと思っていた。『インフィニティ・ウォー』の直後に現れた『アントマン&ワスプ』のスコットの、外と謹慎中の自宅を行ったり来たりするドタバタシチュエーションは、その方面での「don't trade lives」を体現していると解釈していたのだった。当時のふせったーをセルフ引用しよう。

 

 

アントマン&ワスプ』、スコットが謹慎を一応体良く終えるために何度も何度も家に戻っているのがMCUが現在目指しているヒーロー像をまさに象徴している。

AoUでトニーがスティーブとの会話で示唆した「戦いを終え、家に帰る」という最終目標を今作のスコットは(騙し騙しながらも)見事完遂している。またIWでトニーの背後にのしかかったヒーロー活動を終え、普通の日常生活に戻ってほしいというペッパーの淡い希望のような、危険に身を投じるヒーロー活動と家庭人の両立も、スコットはこのシニカルな行動で(元々一般人の彼ならではだが)キャシーとの日常生活を守ることに成功しているのだ。

今回、スコットは仕事関係の都合でルイスに隠匿したラボのありかを教えてしまう軽率な行動を取ってしまうが、何より彼は自らの“生活”、そして周囲の大切な人の“生活”を案じていることがここからわかる。(そもそもピム父娘から生活を奪ってしまったこともまたひどく後悔し、度々謝罪をしようとしている)

「We don't trade lives」とはIWでのキャップの弁だが、『アントマン&ワスプ』に来て、livesに「生命」だけでなく「生活」の意味も付与されたように見えるようになっているのは驚きだ。
元来の意味においてもまた過去作と一貫していて、ゴーストは自らの命を守るためにジャネットの命を引き換えにしようとした結果、その目論見は外れることとなり、殺そうとしたジャネットのパワーで命を救われることとなる。

「We don't trade lives」という現在のMCUが掲げる命題。今回それに準じ、また新たな意味を付与したのは、今まで父親を殺して来たMCUの中で唯一無二の父親ヒーローであったスコットだけが成すことの出来るものだった。

今作を経て、今まで日常への帰還を忍ばせて来た『アベンジャーズ』がこの命題に来年どんな答えを出すのか、非常に楽しみである。
 

 

 

……本当にそうか?

 

ダークナイト ライジング』は、なかば偏執的なまでの滅私奉公にその身を捧げたブルースが、最終的には自己犠牲を覆し(欺き)、「life」を手に入れたという結末だった。

ライジング』の結末は単なる自己犠牲による否定の新たなヒロイズムの提示といった単純なものではない(デントの犠牲という嘘の上で成り立っていた平和が崩壊してはじまる物語が、同じく「実はブルースが生きていた」という自己犠牲の嘘で終わりを迎えるあたりは、嘘に対するノーランのこだわりを感じる)のかもしれなが、アメコミヒーロー映画の完結編が、主人公の殉死を欺き、「life」に向かうエンドを示した意義は大きい。

 

一方で、『エンドゲーム』でも上記で述べた自分の考える「trade lives」に対して、無関心であったかというと、そんなこともない。しかしそれがまた自分の解釈を苦しめる要因ともなっている。

 

前編で言及したルッソ兄弟MCUでの仕事の目標として掲げる脱構築は、主にトニーとスティーブの顛末にもたらされた。

 

自らを公のために捧げてきたスティーブは、ペギーとの生活を最後に選んだ。

ティーブは、2019年以降のトニーのように「life」を選択した。

 

一方で、はじめは身勝手なセレブとして有名だったトニーは、家庭を持ち、最後は自らの命を犠牲にしてブラックオーダーを打ち破った。

 

当初のキャラ付けから異なる別の選択肢を用意したのが、このふたりに対する脱構築であった。脱構築の行く末は、キャラクターの究極の成長としての終止符である。

 

しかし、トニーには、このような脱構築が本当に必要だったのだろうか?

 

アベンジャーズ』のスティーブとトニーの口論を思い出してみる。

www.youtube.com

 

「僕なら鉄条網を切る」。

 

ティーブの在り方に対して、トニーの皮肉めいた性格を表した台詞だが、同作のクライマックスで、トニーはNYに向けて発射された核ミサイルをポータルまで決死の覚悟で運ぶ。「切る」どころか、まさに「鉄条網に身を投じる」行為だった。

 

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彼の自己犠牲的な性格はこれにはじまったわけではなかった。『アイアンマン』のクライマックスでは、巨大リアクターの頭上で、アイアンモンガーを止めるために自分もろともリアクターを暴走し、爆破するようにペッパーに指示している。「鉄条網を切る」選択肢を念頭に、トニーは既に最後には決死の行動に出るヒーローだった。自らのその危なっかしい性格がわかっていたからこそ、彼はウルトロン計画などを考え、「生活に戻る」ことを求めていたのではないだろうか、と。

 

 

しかし、MCUがこの先も拡張を続ける物語として、堂々たる完結をもたらすためには、彼の犠牲は確かに必要であったのかもしれない。この点に関しては、後編で語ることにする。

 

 

最初に、自分が抱いた「納得できない」ポイントとして、「サノスに対する反論を成し得ていないのではないか」という点があった。しかし、サノスが徹底的な他者犠牲(まるで自分こそが世界のための歯車であるかのような顔をするが)であるのに対し、アベンジャーズは自己犠牲である。

 

また、そもそもサノスの無茶なファシズムには応じない、という見地もある。

note.com

 

こちらのnoteは、『キャプテン・マーベル』の流れも汲んで、「土俵に乗らない」ことのヒロイズムの解釈を語っており、その点に関する「納得のいかなさ」が幾分か消化させてくれたと思う。

 

 

 

 

 

ここまでつらつらと書いてきたが、いまだにナターシャの結末には納得していないし、彼女もアッセンブルに加わってほしかった…と思ってはため息が隠せない。スティーブの結末は、トニーとの友情の結実でもある、最高の脱構築の瞬間だったと思っているが、トニーの脱構築は、わからない。

 

「鉄条網を切る」ような自己犠牲の構造の転回を、いつかは、いつかは見せてほしいという思いは変わらない。その転回がもたらされるときは、恐らくそれは本当にMCUが閉じる時になるのかもしれない。

 

 

*1:ここで本来、セカイ系的物語構造での自己犠牲の否定として『天気の子』、そして人が自己犠牲に至るまでの美しさと、その行動の残す苦しさ、痛みを描いてきた作家が、改めて「自己犠牲なんてダセいマネすんな」という姿勢を台詞に出すことで真っ向から打ち出した『さらざんまい』について言及して、同時代のなかの自己犠牲像について論考しようかと思いましたが、様々な都合から現時点では断念しました。『エンドゲーム』の自己犠牲にうち悩んだ際に、『さらざんまい』のこの台詞には深い感銘を覚えた、ということは記しておきます。幾原監督も、https://twitter.com/ikuni_noise/status/1248971049498099717 と、同作一周年を記念した同時再生会の実況ツイートで同パートの際に台詞をつぶやいており、強調したい台詞だったのかな、と思います。