アンティバース、アウターリム

好きな作品や好きなスタジオについて書けたらいいなと思ってます

There was an idea.../the END of the line: 『アベンジャーズ/エンドゲーム』終編

 

 

 

"There was an idea, Stark knows this,

ある計画があった。スタークは知っているな。

 

called the Avengers Initiative.

アベンジャーズ計画だ。

 

The idea was to bring together a group of remarkable people,

超人たちのチームを結成し――

 

see if they could become something more.

更なる存在の可能性を見たいという思い。

 

See if they could work together when we needed them to,

人々が求める時、集ってほしいという思い。

 

to fight the battles we never could."

彼らにしか出来ない戦いを。

 

 

――ニック・フューリー『アベンジャーズ』(拙訳)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 the END of the line

 

 

 

 

 

アベンジャーズ/エンドゲーム』

終編

 

 

 

 

 

 

 

 

取り急ぎ。

察してください!

 

大変お待たせしました。終編です。主にアッセンブルシーンのメタ性の分析を。また、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』への思いも最後にありますので、どうぞよしなに。

自分の怠慢もあって難産な記事でしたが、ユニークな視点が終始提供出来たのではないかと。あ、こういう見方もあるんだ、とか、これは共感できるかも!みたいに感じていただけると嬉しいです。

 

もっと書きたかったな、と思いますが、とりあえずこの三本の時点で2万字越えてるし(卒論かよ!)、とりあえずは良いかなと…。語っても語っても語りつくせない『エンドゲーム』は本当にエピックな作品だったんだな、と改めて思わされる次第です。それでは、よろしくお願いします。

 

 

 

前編はこちら

sicrim.hatenablog.com

 

中編はこちら

sicrim.hatenablog.com

 

 

 

 

 【目次】

 

 

 

 

 

 

 

「アッセンブル」の自己言及

 

www.youtube.com

 

 現在使用されているマーベル・スタジオズのスタジオロゴ映像*1は、コミック→脚本→コンセプトアート→本編映像のモンタージュと、コミック映画が作られゆく過程をあらわしている。

 

 

その中で、最初に脚本パートとして使用されているのが、トニーの「I am Iron Man.」やスティーブの「I can do this all day.」でもなく、上記で引用した『アベンジャーズ』のフューリーの台詞「There was an idea...」である。この台詞は、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の特報にも、様々なヒーローに言わせるというかたちで使用されている。

 

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 この台詞は、マーベル・スタジオズの精神性そのものを表していると言っても過言ではない(というか、そう解釈している)。つまりそれは、映画づくりの精神性だ。

 

 

 このシークエンスを制作したPerception社のケーススタディによれば、ケヴィン・ファイギが考案した「How to build a Universe」、ユニバースの作られ方がコンセプトにあるそうだ。

 

 

1. 伝説のコミックの基盤、歴史

2. ハリウッドの素晴らしい脚本家たちがコミックを脚本に翻案する

3. 最高のアーティストらが、コンセプトアートを描く

4. 最強の監督、キャスト、スタッフが映画としてかたちづくる

5. 複数の映画が、キャラクターが、ユニバースを共有し、マーベル・ユニバースを形成していく

 

 

ケーススタディには、フューリーの台詞がある理由にこうある。「マーベル・スタジオズの精神」と。 

 

様々な分野のプロを集め、共同作業をし、高めあう。そしてひとつの大作を創出する。一人では、常人では出来ない戦い(=作品)であり、その連続で出来ているのがMCUだ。そして、そのsomething moreであり、the battle that we never couldが、『エンドゲーム』である。

 

『エンドゲーム』には様々な自己言及がある。11年間の歴史への自己言及。ルッソ兄弟自身の自己言及。そして、ファイギの思いそのものの自己言及。ファンダムの自己言及。これらの自己言及の集大成こそ、我々が、あの2019年に、劇場にて一同に会し、固唾をのんで見守り、熱狂した、何年も何年も待ったあの言葉、あの瞬間である。

 

 

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 サーガの最終作には、必然的に、その作品が持っていた構造が作品に表出する。

 

『スカイウォーカーの夜明け』ですら、そこには続三部作の在り方があったと言えよう(スカイウォーカー・サーガの在り方は『マンダロリアン』にあったが)。

 

『エンドゲーム』がMCUの構造を表出した瞬間は、間違いなくここだ。

 

そして、その構造とは、映画づくり、ユニバースづくりそのものである。

 

 キャプテン・アメリカのもとに、ドクター・ストレンジはスーパーヒーローというスターを、そして無数のスタッフを用意した。ストレンジは『インフィニティ・ウォー』で未来を視て、数多あるプロットを読み、脚本の筋書きを決定し、人員の配置を考え、計画を導き、そしてタイトルまで("We're in the endgame now.")決定した。彼はその点、プロデューサーといえるだろう。

 

 

 

 そして、スターもクルーも、現場のリーダーである(=監督)キャプテン・アメリカの掛け声で動く。

 

 

 アベンジャーズ・アッセンブルとは、映画の撮影なのだ。

 サノスによって奪われた監督権を、今一度取り戻し、我々のための戦いをしようという、創作への決意の物語なのである。

 

 

 

 

 

 

 

バトンの先

 

 アイアン・ガントレットは、父であるホークアイから、ワカンダの国王であるブラックパンサー、若き希望であるスパイダーマン、そして未来を担う女性たちとキャプテン・マーベルに渡されてきた。これらが、インフィニティ・サーガ以後のMCUを導くスターが、トニーという殿に引導を渡す流れであることは明白だろう。

 

 サノスは多様性を奪った。対して、アベンジャーズが有するのは多様性である。

 

 女性ヒーローが集まる展開がご都合主義な「ポリコレ」的であるという非難は比較的よく見る印象がある。しかし、これに対して言いたい。このバトンシーンはおろか、アッセンブル自体がご都合なのだと。バトンを紡ぐのは次への売り込みだ。そして、アッセンブルは、プロデューサーであるストレンジが用意した場所なのだ。

 

 そして、マーベルスタジオズは、『ブラックパンサー』などの非白人のヒーローや、『ブラック・ウィドウ』などの女性ヒーローの単独映画化を幾度となく阻まれていたという知られざる経緯がある。それを思えば、このバトンシーンはメタ的な強い思いを込めていると感じてしまう。

 

 なんにしても、女性ヒーローのアッセンブルは『インフィニティ・ウォー』の、プロキシマ・ミッドナイトに対するワンダ、オコエ、そしてナターシャの意趣返しであり、その場にいないナターシャに対するトリビュートであったということも忘れてはいけない。

 

 

そうして、バトンは、左から右へ、イマジナリーラインを超越した(=向こう側)トニーのもとへと紡がれる。

中編で、私は自己犠牲についてダラダラと書いた。そこで、ここでひとまず終わらせるためには、不本意ながら英雄の死しかなかったのではないか、と書いた(と思う)。

 

だが、ストレンジによる一つの勝利の筋書きは、まさにそれだ。

つまり、プロデューサーであるストレンジが、トニーという絶対的なヒーロー(=スター)の「英雄死」(=引退)こそがこの壮絶な戦いを、そして映画を、インフィニティ・サーガを完結させるたった一つの手立てであると考えたのだ

 

最終決戦のさなか、ストレンジが決壊した湖をひとりせき止めるシーンがある。

 

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この意味について私は結構考えていたことがあった。『エンドゲーム』における水は、ヴォーミアにおいてソウルストーンを入手した時にワープさせられる場所や、ナターシャの葬式、トニーの葬式など、「死」にまつわるシーンに度々映っている。ストレンジは押し寄せる水を魔法で必死にせき止める。それはトニーの「死」への道の整備であり、またプロデューサーとしての、現場の保全でもある。

 

ストレンジは、トニーの死に、思いつめた表情を見せる(これ削除シーンでしたっけ…)。文字通り、他に方法はなかったのか?という逡巡だ。これはストレンジのやり方としての、また、プロデューサー・ケヴィン・ファイギの逡巡ではないだろうか?(結構怪文書になってきた)

 

結果として、スターの華々しい引退によって、映画は完結する。アッセンブルと、そのバトンは、マーベルの映画の撮影そのものであり、そしてこれからの展望を語るものだったのだ。

 

 

 

 

 

終わり、広がり続ける世界にむけて

 自己言及はトニーの遺言までいきわたる。そのなかには、モロに「Universe」という単語が含まれる。初見時はマジで感動した……。

 

 トニーの「引退」は、広義的な意味で、その多様な姿を持つユニバースを守った。無論、それにはメタ的な意味合いも含まれるのだろう。トニーが守ったのは、マーベルスタジオズの世界、そして作品世界そのもの、また、家族という最小単位の世界だった。

 

キャプテン・アメリカファンとしては、彼の最後を語らねばなるまい。彼の選んだ結末は、まぁ、一言では言い表せないが、感涙だった。正直、アッセンブルやムジョルニア以上だったと言って良い。時間から残された男が、時間を取り戻す物語なのだから。バッキ―との共闘シーンをアッセンブルで観たかった一点は残念だが、彼との別れの、瞳を交わすさまはご飯何杯でもいける。

 

『エンドゲーム』にはソーの5年後、老人のキャップ、冒頭やせ細ったトニーと、ビッグ3全員に体型変化・年齢変化があった。体型変化は『ファースト・アベンジャー』で、年齢変化は『アントマン&ワスプ』『キャプテン・マーベル』でおなじみの手法だ。こうした技術的なフィードバックとしても、『エンドゲーム』はまさに総決算だった。そしてそれが、最後の感動的な継承シーンに用いられる圧倒的な自信。キャラクターの時間操作、という、MCUが手にした時間の結晶体。

 

『エンドゲーム』が最後、1940年代に戻って終了するのは、その輝かしい時間を手に入れられたからだ。

 

『エンドゲーム』は確かに完結の物語だった。しかし、これからもユニバースは広がり続ける。これは、その通過点でしかない。そのさまを我々は既にみている。闇と光がぶつかりあう壮大な世界。その世界の中で我々は生きている。

 

 

 

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アベンジャーズ/エンドゲーム』を西暦2019年4月26日、MOVIXさいたまの最速上映で鑑賞した直後に食べたチーズバーガー。様々な万感の思いを胸に、噛み締めた。

 

 

 

 

 

もう一つの終わりにむけて

 

まぁ……察していただいていると思うが、この記事を急いで書いたのは西暦2021年3月8日公開『シン・エヴァンゲリオン劇場版』明日公開されるからである。個人的な思い入れの強いシリーズの完結編として、この『エンドゲーム』と『シン・エヴァ』は双璧を成していた。そして今、その欠けたピースが長年の時を経て埋まろうとしている。もう気がどうかしてしまいそう!!!!!!*2

 

めちゃめちゃ急ピッチに書いているのにも関わらずすっごくいいこと書いていると思う。どうですか。

 

文中で、私は、サーガ最終作には、その構造が立ち現れると書いた。『シン・エヴァ』も例外ではないと思う。というより、『シン・エヴァ』こそそのオンパレードだろうと言って良いエヴァの構造とは何か、みたいな話もあるんだけど。ぶっちゃけて言うと、この記述は『シン・エヴァ』を念頭に書いたし、『エンドゲーム』そのものを脳内『シン・エヴァ』とすごく重ねて観てた節はある。

 

それはまぁ、平たく言うならばまぎれもなく「庵野秀明」その人だろう。彼のライフワークである(ライフワークになってしまった)エヴァンゲリオン。キャッチコピーに「さらば、全てのエヴァンゲリオン」と書いているのだ。まったく、まったくである……。

 

『エンドゲーム』を観た時、私は万全の体勢で臨むことが出来た。作品の準備的な意味でも、リアル方面の意味でも。しかし、今回は、この状況下だし、世界中が準備できていないというような気がする。いや、私だけは絶対に準備できてない自信があるのだが。

 

というより、『シン・エヴァ』に対する万全な準備とは一体誰が出来よう?それは、庵野秀明スタジオカラーが、それを製作し、完成させた、それこそが準備だろう。覚悟です。そして覚悟をせねばなりません。準備というよりは、覚悟なのです(ハイになってる)。

 

 

個人的には、『エンドゲーム』が『シン・エヴァ』になんらかの影響を与えたのではないか、と若干期待している。上映時間が過去作と比べて30分以上増していたりとか、白プラグスーツが量子スーツっぽいとか、みんなプラグスーツ着てるのもそれっぽいなとか、『エンドゲーム』も言うなれば3.0+1.0だしな、とか、共通項を勝手に見出しては燃えている。今回の振り返りで、個人的に「納得のいかなかった」という第一印象を抱いた(抱いてしまった)『エンドゲーム』が整理できた、と思う。作品が終わるとは何なのか、について、すこしでも考えられることができた、と思う。その意味では、『シン・エヴァ』への準備として、正反対にも思えるこのハリウッド大作への思考は自分にとっては欠かせないフローだった。

 

しかし、『エンドゲーム』は『エンドゲーム』だし、『シン・エヴァ』は『シン・エヴァ』だ。同じ精神性を見出してはいるといえども揺るがない。

 

『エンドゲーム』は、最終的には希望、次の世界への開く鍵だった。しかし、長らくそこになく、そこにあった希望だった『シン・エヴァ』は、「さらば」だ。そこにあるのは、我々、そして庵野秀明をはじめとするスタッフの方々の「さらば」である。出会いは偶然で、別れは必然、ってまた……(PUNPEE 『Operation: Doomsday Love』)。

 

アベンジャーズによる世界との繋がり。エヴァンゲリオンによる世界との繋がり。様々な要因によって世界と繋ぎ止められているということを改めて知る。その繋がりに思いを馳せるばかりだが、感傷ばかりにふけっている時間もない。

 

 

繰り返しの物語。

いっぱいあるけど、もうひとつ増やしましょう。

そして、その先の、お別れ。

卒業式のためにもう寝よう…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ご存知かもしれないが、このロゴ映像は毎作毎作、MARVELの文字の中にある映像がアップデートされている。『ワンダヴィジョン』においては、『エンドゲーム』の名シーンがふんだんに使われており、おおいに私を沸かせた。また、最後に残る映像が昨年急逝したチャドウィック・ボーズマン演じるブラックパンサーのアイコニックな戦闘シーンにしているのもトリビュートとして泣かせる。また、上の動画は、MCU作品のモニターグラフィックスやVFX、そしてタイトルシークエンスを制作しているPerception社がアップロードしたもの。同チャンネルでは、このスタジオロゴのメイキングや、『ファー・フロム・ホーム』のイーディスのUIの素材動画など、MCUファン垂涎のお宝映像の数々がアップされている。 PERCEPTION - YouTube 

*2:最も信頼している庵野ファンのフォロワーのひとりであるジョンドウさんと駄弁ったお話をnoteにアップしています。『シン・エヴァ』についてとか、エヴァンゲリオン庵野作品との出会いについて喋っています。ひとりのオタクの在りようのあかしとして、お時間あるときにどうぞ。結構長いです。

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