Endgame Study 20: 抑圧へのファイトソング『キャプテン・マーベル』
Endgame Study 20
『キャプテン・マーベル』
Spoiler Alert!!! この記事には『キャプテン・マーベル』のネタバレが含まれています。
いよいよ大詰めである。
『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』のクリフハンガーにて示された希望の光が遂にベールを脱ぐ。
『キャプテン・マーベル』の牧歌的雰囲気はフェーズ1のそれを想起させるものだった。どこか気の抜けた展開には正直、拍子抜けもしたが、フェーズ3の大終盤にしてこの作風を繰り出してくるのは、『エンドゲーム』だけでなくそれ以後の彼女を見越した姿勢がうかがえる。
MCUにおいての立ちはだかる敵といえば、例えば恐怖によって世界を征服しようとしたヒドラであったり、全宇宙の生命を自らに置き換えようとしたエゴであったり、常に全体主義的な他者に制限と抑圧を押し付ける者達であった。
『キャプテン・マーベル』においてキャロルは常に制限と抑圧を受けてきた人物ということが語られる。子どもの頃の叱責、士官学校の頃のお前には無理だ、とする罵声、そしてパイロットになってさえも、女性であるというだけで戦闘機には乗せてもらえない。
そしてクリーによって彼女はアイデンテティを剥奪され、クリーに都合の良い存在として抑圧を受ける。
『キャプテン・マーベル』が感動的なのは、クリーのような帝国主義や、ジュード・ロウ演じるヨン・ロッグの父権的地位を振りかざすクソ野郎から、「お前には無理だ」、とする日常的にもありふれた様々な抑圧者の不当な声を、キャロルが自分のスーパーパワーを真に覚醒すると同時に振り切るところにある。キャロルがインテリジェンスにNOを突きつけ、制限されていた本当のパワーを引き出す今作の覚醒シーンは、MCUでも屈指の鳥肌級だ。
ちなみに、『ラグナロク』から『キャプテン・マーベル』に至るまで、内面世界での対話シーンが欠かさず存在する。『エンドゲーム』ではどうなるのだろうか。
今作は様々な90年代ミュージックを取り揃えているが、なかでも印象的なのがキューブを防衛(と見せかけてただのブリキの箱)するアクションの際に流れるNo Doubtの『Just a Girl』だ。歌詞は掲載しないが、この歌の歌詞の意味するところはずばり今作のテーマである。少女であるという理由から不当に制限されることへの解放を訴えるこの歌は、まさにいま抑圧に立ち上がり、戦うキャロルの姿にピッタリだ。
ただ、このシーンのアクションは解放的なBGMとシチュエーションとは裏腹に非常にもっさりしていて、とても勿体ない。
今作はアクションに問題が多く見受けられる。スーツ姿のベン・メンデルソーンの蹴りは実に美しいが。
マーベルヒーロー最強と煽られてきたキャプテン・マーベルが実はそこまで強そうに見えない。アキューザーによる爆撃を止めるのがクライマックスで、確かに単身で爆撃空母を堕とすのはすごいのだが、それならば冒頭かどこかの作戦でアキューザーによる攻撃の凄まじさを被攻撃者からの目線で見せた方が良かったのではないかと思う。ミサイルを撃墜するというシチュエーションは『スターフォックス64』のセクターZを思い出して好きだが(グレートフォックスを無傷でクリアすることはできなかったなぁ・・・・)。
エンドクレジットに流れるのはHole『Celebrity Skin』。この歌詞が、キャロルのことはもちろん、マーベルスタジオズ推しとして泣ける。
女性が主人公のアメコミ映画を製作することはファイギ達にとって悲願だった。『ワンダーウーマン』以前にも、『ブラック・ウィドウ』 『キャプテン・マーベル』は計画されていたが、「女ヒーローの玩具は売れない」とするクリエイティブ・コミッティ―による横槍などによって、頓挫した。
『Celebrity Skin』は、サビで「あなたがやり遂げることができて、嬉しい 今本当にやり遂げたんだね」と繰り返す。これが彼女ら彼らの心境と重なって、泣ける。マーベルスタジオズは、ようやく成し遂げることが出来たのだ。
抑圧との戦いが、キャプテン・マーベルそしてアベンジャーズの戦いだった。
その原点ともいえる彼女は、どんな抑圧にも、パワーを得る前からヒーローとして立ち上がっていた。
そして今、ユニバースは狂気のタイタン人による未曾有の抑圧を受けている。彼女はどんなNOを突きつけるのか。
余談ONE SHOT: まぼろしの『エンドゲーム』直前作
2014年10月、『インフィニティ・ウォー』が二部作であること、そしてキャプテン・アメリカ3の『サーペント・ソサエティ』が『シビル・ウォー』になるサプライズがもたらされた伝説のフェーズ3の発表イベント。ここで後に『エンドゲーム』となる『インフィニティ・ウォー PART2』の直前にあったのは、『キャプテン・マーベル』ではなかった。
2018年11月公開『インヒューマンズ』。
今見るとなかなか面白いスケジュールだ(『ホームカミング』も『アントマン&ワスプ』もない)。何故『インヒューマンズ』は姿を消したのか?
まずこのようにアナウンスされた今作は、ソニーとマーベルの合意により『ホームカミング』の製作が決定。そして『アントマン&ワスプ』も公開が決まる。そのあおりを受け、スケジュールが2019年7月に延期される。この時点でアベンジャーズ4の直前作としての地位ではなくなる。
2016年4月、ファイギは上記のインタビューにてディズニーが『インディ・ジョーンズ』新作を同日に設定したため、延期されたスケジュールには公開されないだろうと語った。が、立ち消えについては言及していない。
しかし、同月22日にはスケジュールから『インヒューマンズ』の文字が消えたと報じられる。
同年11月、ファイギは「インヒューマンズは公開されるでしょう。いつかはわかりませんが。テレビで起こると思います。常に語っている通り、我々はそれをフェーズ4で映画として語り得ることができるでしょう」と語ったが、その直後である14日、マーベルテレビジョンとIMAX社は『インヒューマンズ』を製作、全編をIMAXデジタルカメラで撮影し第一話と第二話をIMAXシアターで上映、全8話をABCにて放送すると発表した。
そして、2017年9月、IMAXシアターで上映が開始され、追ってABCでも放送がスタートする……。
クリーによって作られた種族、インヒューマンズは、MCUにおいての初出は『エージェント・オブ・シールド』シーズン2となる。おそらく映画『インヒューマンズ』は、そのドラマMCUの要素をふんだんに絡められる予定だったのであろう。しかし、マーベルスタジオズとドラマを現在でも取り扱うマーベルのチェアマンであるパルムッターは犬猿の仲。『インヒューマンズ』はマーベルエンタテンメント肝いりの企画であったことがそこかしこから伺える。そして、スタジオがディズニー直属になったことから、本社の企画であった『インヒューマンズ』の映画化は頓挫したと思われる。
そして、ドラマ『インヒューマンズ』は酷評を受け、興行的にもコケた。
自分もIMAXで鑑賞し、放送も全話観たが、正直お世辞にも褒められた代物ではない。
ただ、キャストは好演をしているし、まず何よりブラックボルトをはじめとするロイヤルファミリーをこのまま失敗したからといって塩漬けにしておくには非常にもったいない。
『エージェント・オブ・シールド』に彼らを是非とも登場させて、その救済を図ってもらいたい。もしくは、ファイギがいつか語っていた通り、映画として再スタートを切るか………。
まずそもそもBlu-rayすら発売されていないので、せめてそれだけはリリースしてもらいたいものだ。
ちなみに、『キャプテン・マーベル』はクリー文字、地球人へのクリー人の血液の輸血など、実は『エージェント・オブ・シールド』のクリーの設定の影響が少しだけだが見られる。まだコンティニュティを保とうというのは、対立によって断絶してしまった映画とドラマの繋がりのかすかな希望だ。
Endgame Study 19:We don't trade lives.『アントマン&ワスプ』
Endgame Study 19
『アントマン&ワスプ』
『インフィニティ・ウォー』の凄惨な戦いに疲弊しきった観客たちのもとに、彼らが帰ってきた。
『アントマン』タイトルは決まってアベンジャーズの戦いのその後にやってくる。まるで清涼剤のような立ち位置で、公開順もちゃんと考えてシリーズを構築するその計画性に感心してしまう。
『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』や『インフィニティ・ウォー』において、「戦いを終え、家に帰る」という命題がしきりに語られる。平和を手に入れた時、いつかその戦いを終え、愛する人と静かな時を過ごす。トニーはそれを目標としつつも、結局のところスーツが手放せない。
『アントマン&ワスプ』でのスコットは、『シビル・ウォー』の結果逮捕されたが、脱獄後FBIと取引をし、2年を自宅での軟禁を過ごすことになった。
結果、ハンクとホープは追われる身となり、彼らの生活を破壊してしまうこととなる。
今作は『シビル・ウォー』の余波を描いたストーリーになっている。
スコットが軟禁処分終了2日前のドタバタが本筋だが、その際に何度も何度も家に戻る彼の行動によってMCUが最終的に目指しているヒーロー像を描いているのではないだろうか。
スコットはヒーロー活動と普通の生活の両立を試みる。
スコットは、FBIの監視の目を逃れては、ピム達に協力し、そしてFBIに無断に活動している事がバレれば、即座に自宅へ走り戻る。それは軟禁を終える為、キャシーの為だ。
今回、スコットは仕事関係の都合でルイスに隠匿したラボのありかを教えてしまう軽率な行動を取ってしまうが、何より彼は自らの“生活”、そして周囲の大切な人の“生活”を案じていることがここからわかる。
そもそも彼は『シビル・ウォー』での独断行動でピム父子の生活を奪ってしまった。スコットはそれに対して深く後悔し、彼らの計画を手助けする。そうしてジャネットを取り戻すことによって、スコットはピム一家の生活を取り戻そうとする。
「We don't trade lives.」とは『インフィニティ・ウォー』でのキャップの弁だが、『アントマン&ワスプ』に来て、livesに「生命」だけでなく「生活」の意味も付与されたように見える。
また、元来の意味においても『インフィニティ・ウォー』のセリフと一貫している。
不幸な事故により身についた特異体質に生死を脅かされるゴーストは、ジャネットの力を吸収しようとする。その量子の力を吸収されるとジャネットは死亡してしまう。
しかし、最終的には自分の命の為に死なせようとしたジャネットによって、ゴーストは一命を取り留める。
『インフィニティ・ウォー』の「We don't trade lives.」は自ら進んで犠牲になろうとしたヴィジョンに対するスティーブのセリフだった。命を差し出すことによって、他の命を救おうとはしない、というサノスのスタンスへのNOでもあった。このトロッコ問題的命題は『エイジ・オブ・ウルトロン』のソコヴィアに対してもトニーとスティーブの間で交わされる。今作においては、生きているかもわからないジャネットと生きているゴーストにそれが適応されるだろう。
「We don't trade lives.」という現在のMCUが掲げる命題。
今回、その命題を描きつつ、更に新たな意味を付与したのは、今まで父親を殺して来たMCUの中で唯一無二の父親ヒーローであったスコットだけが成せることだった。
日常への帰還、ヒーローと日常の両立。ヒーローにとっては常につきまとう問題だが、庶民派ヒーローであるアントマンはその解を提示する。終盤のなんてことはないルイスやピム夫妻の日常風景は、悪人の不在であるこの映画においてアントマンの勝利を意味する。
そして、最も後味の悪い結末を迎えるわけだが……。
彼はどのように最後の戦いに絡むのか。サノスへの怒りをしかと噛みしめる幕引きである。
Endgame Study 18: 世界を変える『ブラックパンサー』
Endgame Study 18
『ブラックパンサー』
『アベンジャーズ』が特大ヒットを記録した2012年、『ウィンター・ソルジャー』『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の2作が公開された2014年と、これらはMCUの中でも特筆すべき年に数えられるが、それでも2018年は最も躍進(と、喪失)を遂げた年だろう。
なかでも、この『ブラックパンサー』はご存知の通り、MCUどころか、アメコミ映画、ハリウッド映画史においても強い影響を残した。
『ブラックパンサー』はおそらくMCUで最もポリティカルな主題を取り扱った作品だ。だが、その為にマーベルスタジオズはライアン・クーグラーを連れてきたのではないかと思う。
で、何にしても今作はヴィランがいい。エリック・キルモンガー。クーグラーの盟友であるマイケル・B・ジョーダンが演じる彼は、MCUの抱えていたヴィランの問題を乗り越え、シリーズでも最高の悪役に君臨した。
そのセクシーで武骨のある見た目はもちろん(ロンドンでの服装があまりにもカッコ良すぎる)、抱えたバックボーン、散り様、全てのキャラが立っていた。
キルモンガーの作戦はすべてワカンダの伝統に乗っ取っているというのも良い。ヴィランは時に卑怯な手を使うが、彼は王位継承権を持ち、正当に儀式のもとでティ・チャラより王座を奪い取る。その上で彼はワカンダの鎖国の伝統を消し去り、虐げられてきた同胞を圧倒的な武力で解放しようとする。
キルモンガーの動機は悲しく、そして残酷ながら観客に共感を誘惑する。
彼は、ティ・チャラの過ちだけでなく、世界が苦しみに包まれようとも自国の安寧の為に手を差し伸べることをしなかったワカンダそのものが生み出した悲しい怪物だった。
だが、ティ・チャカたちはキルモンガーをそれでも止めようとする。
キルモンガーの真相を知ったティ・チャラは、祖先の霊にあなた達は間違っていた、と叫ぶ。彼が止めるのはキルモンガーだけでなく、ワカンダの排他的だった歴史そのものになる。キルモンガーはワカンダを何もしてこなかった、と責め立てる。ワカンダは偉大な力を持ちながらその国力が露見するのを恐れ、影で自分たちのみ繁栄してきた。大いなる力には大いなる責任が伴うことから避けてきたのだ。
そして伝統を重んじる王家であるティ・チャラの思想に、キルモンガーの思想が少なからず影響を与えることとなる。完全無欠であるかのように思われるヒーローが、悪役である彼との戦いを通じ、その行動の意味を知り、成長するのだ。
だがしかし、ティ・チャラは今までのワカンダとも、キルモンガーの帝国主義とも違い、自国の技術や資源を公開し、積極的な協力をすると国連にて世界中に誓う。ここでかなり明確なトランプ政権への批判が挿入されるのがハッとさせられる。『ブラックパンサー』は政治的すぎるきらいもあるが、今ここでやるべき事をしっかりとこなしている点が素晴らしいと思うし、それが社会現象とまでなったゆえんであるように思う。また、こういったカルチュラルな問題を取り扱わねば、ライアン・クーグラーにわざわざ指揮を任せる必要もなかっただろう。
そしてこの国連でのティ・チャラの演説がこれまた感動的で、どこか説教臭いところもあるかもしれないが、この部分こそ『ブラックパンサー』の成し遂げたことだと思う。
現実への理想をフィクションで高らかに宣言し、リアルへの作用を試みる。実に青臭い理想だが、この志が何よりも尊い。
フィクションである『ブラックパンサー』は、現実世界を変えようとしたのだ。
次回は『アントマン&ワスプ』の予定です。
Endgame Study 17: そして、王になる『マイティ・ソー/ラグナロク』
Endgame Study 17
『マイティ・ソー/ラグナロク』
タイトルに関してはもはや何も言うまい。
狂人ことタイカ・ワイティティ監督は今作の製作にあたり「前の2作は見てないよ!」とどこかのインタビューで飄々と答えていたが、そんな事はなく、前の2作どころかMCU全体に細やかな気配りがなされたファンにとってご褒美のような作品だった。
『ラグナロク』はとにかくイースターエッグがてんこ盛りだ。『マイティ・ソー』でマニアを騒がせたインフィニティ・ガントレットのオチがつき、ハルクを落ち着かせんとするソーは『エイジ・オブ・ウルトロン』のブラック・ウィドウをいじるかのよう。
そしてもちろんのこと今作は『マイティ・ソー』3部作の最終作であり、前作の要素も継承(というか半分茶化してる)されている。『ダーク・ワールド』の出来事はマット・デイモンとルーク・ヘムズワースが演じるシェイクスピア劇チックに紹介される。そもそもシェイクスピアを引用することで始まったこのシリーズが劇中劇として今までのあらすじをコメディ調に紹介するのもまた面白い。
今作における前作への最も強いトリビュートは、ソーがステイツマンの玉座に座るところだ。ここにかかる音楽は、『マイティ・ソー』にてアスガルドが初めて映るシーンのスコアを引用している。国土が破滅するが、民のいるここがアスガルドなのだということを強く示す名演出で、気付いた時にはとにかく震えた。
今作はあらすじだけ見ればMCUでも1、2を争うレベルに凄惨だ。冒頭でオーディンは死に、ムジョルニアは破壊され、アスガルドの血塗られた過去が封印されていた彼らの姉の復活と共に露見する。王族であるソーは奴隷となり、友人たちもヘラの前に倒れる。最後には王国の崩落を選び、輝ける神々は移民となり宇宙をさまよう。
暗すぎる……。
が、そんな印象を微塵にも受けないのは、ワイティティの作家性によるところが大きい。彼の繰り出すシュールギャグの応酬は、『ラグナロク』を最も暗く、そして最も楽しい作品に仕上げている。
ただ、ずっとおちゃらけているかというとそうでもなく、キメるところはしっかりキメる。レッド・ツェッペリンの『移民の歌』はまさしくソーにピッタリのナンバーだったが、この曲を使おうというのはワイティティの提案だった。
そしてまた、今際の時のオーディンと息子たちの会話と北欧の海など、抒情のあるシーンも巧みに演出する彼の手腕は恐ろしい。ギャグばかり言ってるお調子者が急に真面目になる怖さを彼は知っている
ビッグ3の3部作最終作は決まって彼らのトレードマークを手放すことが共通している。キャラそのものを脱構築してみようというこの試みは、もはやフェチ的なものを感じる。共通していることこそファンの間で語られているが、ファイギなどの主要スタッフがこの件について語ったことは記憶ではあまりなかったのではと思う。今度また調べてみます。
今作のソーは、しきりにヒーローのすべき事、と口にする。王ではなくヒーローを繰り返す。最後、彼は王に向き合うことになるのだが、その直後の出来事はご存知の通りだ。王としての彼はどう描かれるのか?おそらくソーは、ビッグ3のうち今後が最も楽しみなキャラクターである。