アンティバース、アウターリム

好きな作品や好きなスタジオについて書けたらいいなと思ってます

僕なら、鉄条網を…/the END of the line: 『アベンジャーズ/エンドゲーム』中編

 

大変ご無沙汰しております。中編です。はい…

なお、あらかた前もって書いていて、詰めたい部分は残してしっかりリサーチして書こう…と思っていましたが、現時点では(3/8までにいったんのケリをつけたいがため)断念しました。ところどころ繋がらない記述が残っているのはそのためです。本当に申し訳ない

 

<前編はこちら>

ONE YEAR LATER.../the END of the line: 『アベンジャーズ/エンドゲーム』前編(仮) - アンティバース、アウターリム

 

 

 

犠牲というシステムの限界

ここまでは主に、『エンドゲーム』の目玉テーマのひとつであった「時間」をメインに触れてきた。では、そろそろもう一つのメインテーマに向き合うべきだろう。それは「自己犠牲」。そしてその描き方こそが、個人的に納得のいかなかったところでもあった。公開からはや1年以上が経過している(これは自分がちんたらしてたからなんだけど…)。

 

 今再び、『エンドゲーム』に思いを馳せるためには、この納得できなかったという事実について、何故モヤモヤを抱いたのか、何を期待していたのか、何が「機能していなかった」のか、自己分析をするべきだろう。「時間」をもとにMCUが捧げたオマージュ元やヴィジュアル、ルッソ兄弟フィルモグラフィーなどからみる時空間の表面をなぞる考察を試みた前編とは違って、中編の今回はかなり個人的な分析と解釈の吐露を行うことになるかもしれない。ご容赦願いたい。

 

まず、公開当時ふせったーで書いていた所感を原文ママで掲載する。

アベンジャーズ/エンドゲーム』に関して、どうしても納得が出来ないところが一点だけあって、何故ナターシャが命を落とすことになったのか、そこだけがどうにも自分の中で腑に落ちない。

『インフィニティ・ウォー』でキャップはヴィジョンの自死による世界の防衛の提案を「命に大小はない」として退けた。サノスは命を「大小のあるものとして」天秤にかけて他者に犠牲を強いることによって彼の望む世界の創生に成功した。

『インフィニティ・ウォー』でのこの両者のスタンスの違いは勝敗を決め、サノスは勝利し、アベンジャーズは敗北する。

この大敗からの勝利には、命に秤をかけて目的を遂行しようとするサノスの行動へのNO、命を命で救うという犠牲という存在の否定が必要不可欠だったと思っている。

で、『エンドゲーム』でナターシャは自らをソウルストーンの為に犠牲にする。結局のところ、命を差し出して命を救う行動に出た。(サノスは圧倒的な他者犠牲でありナターシャの場合自己犠牲であるという違いはある)

これが、もうどうしても受け入れられないというか、ヴォーミアに着いた時からいやいやいややめてくれ本当にマジで頼むからと冷や汗が止まらなかった。

ともかく、他にソウルストーンを手に入れる方法をなんとかして模索してほしかったなと。犠牲を強いて勝利したサノスに勝利する為に、犠牲を生むのはどうだったんだろう。

ただ、やはり先ほど書いたようにサノスは他者に犠牲を強いる。それと違ってナターシャとトニーは自らを犠牲に差し出す。ここにスタンスの違いは示されている。だけになんだか余計にモニョるところもある。

という感じ。「いやまぁわかるけど…」てな感じで、肯定とも否定とも言えない、言わないようなのが自分らしいなとおもいました(クソ自己嫌悪)

 

 

 

ご存じの通り、『エンドゲーム』には衝撃的な自己犠牲が2つ用意されていた。

 

 MCUの精神的な中枢であるスティーブ・ロジャースのオリジンが自己犠牲によって完成されたように、今までのMCUは多く「自己犠牲」を標榜してきた側面がある。

よって、『エンドゲーム』の自己犠牲的行動についてより深く考えるために、マーベルスタジオズ作品における自己犠牲描写を「他者のために、命を差し出したり、戻る可能性が極端に低い状況で自らの死あるいはそれに準ずる不可逆的な被害を覚悟して行動する」というシーンの有無と差異を、自分なりに考えてみた。

 

『アイアンマン』のインセンやトニー自身、『マイティ・ソー』でのデストロイヤーを前にした力の無いソー、『ファースト・アベンジャー』のスティーブ、『アベンジャーズ』のコールソン…。

 

MCUの英雄譚には、自己犠牲がつきまとう。

 

 

これらの自己犠牲行動は多くは「死を覚悟」しているものの、死なない可能性も極僅かながら存在していると言えなくもない。

ヴォーミアのナターシャがこれまでと違うところは、「自らの死」と「他者の生存」がまったくのトレードオフの上で成立しているからではないだろうか。前者が起こらない限り、後者は起こり得ない、シーソーが発生している。これは『Vol.2』のヨンドゥと『インフィニティ・ウォー』のガモーラとヴィジョン(もっとも、この二人は仲間である他者に自らの命をゆだねている)のみである。

 

 

『インフィニティ・ウォー』での'We don't trade lives.'「命に大小はない」と、『エンドゲーム』の'Whatever it takes.'「すべてをかけて」の二つのセリフはどうだろうか。

 

 

「命に大小はない」とキャップが言った時、自分は「おお」と思った。MCUは、というよりも古今のヒーロー映画は、自己犠牲による英雄性の獲得を物語の柱としていた部分が多い。この物語構造が定式化しているジャンルのなかで、命を命で交換しない、とキャップに言わせた。自分は自己犠牲構造の否定を見せてくれるのかと思ったのだ。

 

自らの提唱する極端な理論のもとで命で命を交換したサノスに対し、ヴィジョンからマインドストーンを安全に分離するように選択肢を探したアベンジャーズは、彼の言うdon't trade livesを実践しようとしていた。

 

ただ、自分自身の解釈が結構な暴投を放り込んでいたとも思っている。当時、自分はヴィジョンを殺害してしまってもサノスが勝利したことなどから、そもそもアベンジャーズはtrade livesしてはいけないのである、と解釈していたのだ。

結果として彼らは敗北したのだし、その敗北が5年間の閉塞的なギャップを生むことになる。

 

また、このような解釈をするに至った理由に、『インフィニティ・ウォー』での敗北の要因──ガモーラを殺害したサノスに対するスター・ロードの怒り、ヴィジョンのマインドストーンを早々に破壊しなかったことなど、アベンジャー側の「甘さ」が招いたその敗北こそが、ストレンジの見た勝利への道筋であり、「We don't trade lives.」にもとづく倫理的な行動による回りまわった勝利であると考えていた(というか、今もそっちの方が良かったでしょ、と思っていないことはない)。

 

11年の節目の『エンドゲーム』で、自己犠牲の否定を成してほしかったという気持ちは大きい。

 

そこには、2019年の他の作品(国内のアニメである)*1、そして「完結編」としての先達である、とある作品の思想が大いに絡んでいる。

 

その先達こそ、『ダークナイト ライジング』である。

ダークナイト ライジング』は、自分が考えていた「We don't trade lives」の理想像だった。自分は、この「lives」に生命だけでなく、「生活」の意も含めるべきだと思っていた。『インフィニティ・ウォー』の直後に現れた『アントマン&ワスプ』のスコットの、外と謹慎中の自宅を行ったり来たりするドタバタシチュエーションは、その方面での「don't trade lives」を体現していると解釈していたのだった。当時のふせったーをセルフ引用しよう。

 

 

アントマン&ワスプ』、スコットが謹慎を一応体良く終えるために何度も何度も家に戻っているのがMCUが現在目指しているヒーロー像をまさに象徴している。

AoUでトニーがスティーブとの会話で示唆した「戦いを終え、家に帰る」という最終目標を今作のスコットは(騙し騙しながらも)見事完遂している。またIWでトニーの背後にのしかかったヒーロー活動を終え、普通の日常生活に戻ってほしいというペッパーの淡い希望のような、危険に身を投じるヒーロー活動と家庭人の両立も、スコットはこのシニカルな行動で(元々一般人の彼ならではだが)キャシーとの日常生活を守ることに成功しているのだ。

今回、スコットは仕事関係の都合でルイスに隠匿したラボのありかを教えてしまう軽率な行動を取ってしまうが、何より彼は自らの“生活”、そして周囲の大切な人の“生活”を案じていることがここからわかる。(そもそもピム父娘から生活を奪ってしまったこともまたひどく後悔し、度々謝罪をしようとしている)

「We don't trade lives」とはIWでのキャップの弁だが、『アントマン&ワスプ』に来て、livesに「生命」だけでなく「生活」の意味も付与されたように見えるようになっているのは驚きだ。
元来の意味においてもまた過去作と一貫していて、ゴーストは自らの命を守るためにジャネットの命を引き換えにしようとした結果、その目論見は外れることとなり、殺そうとしたジャネットのパワーで命を救われることとなる。

「We don't trade lives」という現在のMCUが掲げる命題。今回それに準じ、また新たな意味を付与したのは、今まで父親を殺して来たMCUの中で唯一無二の父親ヒーローであったスコットだけが成すことの出来るものだった。

今作を経て、今まで日常への帰還を忍ばせて来た『アベンジャーズ』がこの命題に来年どんな答えを出すのか、非常に楽しみである。
 

 

 

……本当にそうか?

 

ダークナイト ライジング』は、なかば偏執的なまでの滅私奉公にその身を捧げたブルースが、最終的には自己犠牲を覆し(欺き)、「life」を手に入れたという結末だった。

ライジング』の結末は単なる自己犠牲による否定の新たなヒロイズムの提示といった単純なものではない(デントの犠牲という嘘の上で成り立っていた平和が崩壊してはじまる物語が、同じく「実はブルースが生きていた」という自己犠牲の嘘で終わりを迎えるあたりは、嘘に対するノーランのこだわりを感じる)のかもしれなが、アメコミヒーロー映画の完結編が、主人公の殉死を欺き、「life」に向かうエンドを示した意義は大きい。

 

一方で、『エンドゲーム』でも上記で述べた自分の考える「trade lives」に対して、無関心であったかというと、そんなこともない。しかしそれがまた自分の解釈を苦しめる要因ともなっている。

 

前編で言及したルッソ兄弟MCUでの仕事の目標として掲げる脱構築は、主にトニーとスティーブの顛末にもたらされた。

 

自らを公のために捧げてきたスティーブは、ペギーとの生活を最後に選んだ。

ティーブは、2019年以降のトニーのように「life」を選択した。

 

一方で、はじめは身勝手なセレブとして有名だったトニーは、家庭を持ち、最後は自らの命を犠牲にしてブラックオーダーを打ち破った。

 

当初のキャラ付けから異なる別の選択肢を用意したのが、このふたりに対する脱構築であった。脱構築の行く末は、キャラクターの究極の成長としての終止符である。

 

しかし、トニーには、このような脱構築が本当に必要だったのだろうか?

 

アベンジャーズ』のスティーブとトニーの口論を思い出してみる。

www.youtube.com

 

「僕なら鉄条網を切る」。

 

ティーブの在り方に対して、トニーの皮肉めいた性格を表した台詞だが、同作のクライマックスで、トニーはNYに向けて発射された核ミサイルをポータルまで決死の覚悟で運ぶ。「切る」どころか、まさに「鉄条網に身を投じる」行為だった。

 

f:id:SICRIM:20210228070525j:plain

 

彼の自己犠牲的な性格はこれにはじまったわけではなかった。『アイアンマン』のクライマックスでは、巨大リアクターの頭上で、アイアンモンガーを止めるために自分もろともリアクターを暴走し、爆破するようにペッパーに指示している。「鉄条網を切る」選択肢を念頭に、トニーは既に最後には決死の行動に出るヒーローだった。自らのその危なっかしい性格がわかっていたからこそ、彼はウルトロン計画などを考え、「生活に戻る」ことを求めていたのではないだろうか、と。

 

 

しかし、MCUがこの先も拡張を続ける物語として、堂々たる完結をもたらすためには、彼の犠牲は確かに必要であったのかもしれない。この点に関しては、後編で語ることにする。

 

 

最初に、自分が抱いた「納得できない」ポイントとして、「サノスに対する反論を成し得ていないのではないか」という点があった。しかし、サノスが徹底的な他者犠牲(まるで自分こそが世界のための歯車であるかのような顔をするが)であるのに対し、アベンジャーズは自己犠牲である。

 

また、そもそもサノスの無茶なファシズムには応じない、という見地もある。

note.com

 

こちらのnoteは、『キャプテン・マーベル』の流れも汲んで、「土俵に乗らない」ことのヒロイズムの解釈を語っており、その点に関する「納得のいかなさ」が幾分か消化させてくれたと思う。

 

 

 

 

 

ここまでつらつらと書いてきたが、いまだにナターシャの結末には納得していないし、彼女もアッセンブルに加わってほしかった…と思ってはため息が隠せない。スティーブの結末は、トニーとの友情の結実でもある、最高の脱構築の瞬間だったと思っているが、トニーの脱構築は、わからない。

 

「鉄条網を切る」ような自己犠牲の構造の転回を、いつかは、いつかは見せてほしいという思いは変わらない。その転回がもたらされるときは、恐らくそれは本当にMCUが閉じる時になるのかもしれない。

 

 

*1:ここで本来、セカイ系的物語構造での自己犠牲の否定として『天気の子』、そして人が自己犠牲に至るまでの美しさと、その行動の残す苦しさ、痛みを描いてきた作家が、改めて「自己犠牲なんてダセいマネすんな」という姿勢を台詞に出すことで真っ向から打ち出した『さらざんまい』について言及して、同時代のなかの自己犠牲像について論考しようかと思いましたが、様々な都合から現時点では断念しました。『エンドゲーム』の自己犠牲にうち悩んだ際に、『さらざんまい』のこの台詞には深い感銘を覚えた、ということは記しておきます。幾原監督も、https://twitter.com/ikuni_noise/status/1248971049498099717 と、同作一周年を記念した同時再生会の実況ツイートで同パートの際に台詞をつぶやいており、強調したい台詞だったのかな、と思います。

ONE YEAR LATER.../the END of the line: 『アベンジャーズ/エンドゲーム』前編(仮)

the END of the line

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

f:id:SICRIM:20200509175539j:plain

アベンジャーズ/エンドゲーム』

 

 

 注記:こちらの記事はまだ未完成ですが、現在腰を据えて取り掛かれない状況&想定より遥かに長くなってしまったため、とりあえず前編と題し、今お見せ出来るところを公開することにしました。お付き合いいただけると幸いです。

 

 

 

公開からもう2ヶ月経とうとしていますが!

そこからいろんなことがありまたまたまたまた寝かしてしまっていました……。というかもう1年ですよ。えーっ。

ようやくやりますすみません…。公開時の熱や気持ちをそのままに言語化したかった気持ちはありますが、まぁこうしてしまったので、今ようやく落ち着いて語れる(それでもまとまりのない)ようになった…気がする!ので、なんとか駄文を書き散らしてみます。

 

 

本題に入る前に、とりあえず公開前後のテンションを思い出すために『アイアンマン』~『インフィニティ・ウォー』までを総ざらいしたこの激アツ予告を観ましょう。これ以降なんだかシリーズものを総決算するようなPV増えましたよね。『ダーク・フェニックス』や『トイ・ストーリー』とか。ってどれもディズニー。

www.youtube.com

 

 

 余談になりますが、同じフォーマットで『エンドゲーム』までを取り入れた『インフィニティ・サーガ』版もあります。これはSDCC2019のホールHの冒頭で公開されたもの。こちらも要チェック。鉄を叩く音によってトリビュートされているのが泣ける。

 

 

 

www.youtube.com

 

 【目次】

 

 

はじめに

さて、テンションも上げてきたところで本題に移りたい。

まず、この記事ですが……実は結構前からちょくちょく書いてたり書こうとはしてたんだけども、なんだかできなかった…。それほどまでに『エンドゲーム』は個人的に意味合いが重い(のです)。なんだか文のつながりがメチャクチャかもしれませんが何卒ご容赦願います。

 

と言い訳がましいことを言いつつも、とはいえ公開直後の熱や印象をこうしてかたちに出来なかったのは機会損失が大きいような気がする。

まぁこうして公開一年後に、まさしく指が鳴らされたような、都市が、映画館が静けさを強いられるこのようなタイミングで振り返るのもまた一興かもしれませんが…。

 

 

で、「以後」直後の自分の心境を改めて振り返りぶっちゃけると『エンドゲーム』に最初に抱いた印象は「最高の映画体験。しかし、納得がいかなかった」。

ある意味それは期待値の途方もない高さの裏付けでもあるでしょうし、前人未到の初体験に体もこころも追いついていなかった、ということも今思えばあったと思います(これは『シン・エヴァ』でもそうなるかもしれないしそうじゃないかもしれない)。

自他ともに認めるMCUファンボーイである自分でもこの抱いた感情はやはり向き合わねばならないし、それを分析することによって何らかの理解を深めることも可能でしょう。

 

 

 

という「納得できなかった」というスタンスを表明したところで、ここでは何を記すのかというと、『エンドゲーム』の初鑑賞時の印象を蘇らせることができるようにしたく思い、ある程度本編の展開構成に即した文章の開陳を、またそれでいて自分の「納得」に少しでも近づけるように筋道立った論考を、それぞれ、敗北によるBlip以後のMCU、『エンドゲーム』において重要な要素である時間にまつわること、恐らく自分のその「納得出来なかった」原因であろう犠牲という行動、そしてアッセンブル、ひいては今までのMCUとこれからのMCUについてに分けて考えたいと思います。前置きが長い!

 

 

 

 

 

 

敗北と「脱構築

 

 

(拙訳)

インタビュアー:これはあなた(ジョー・ルッソ)の四度目のMCUでの監督作です。初めての時(訳注:『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』)と今で何か心境の変化はありますか?

 

ジョー:私たち兄弟は破壊者としてMCUに参加しました。脱構築していくのは好きですし、我々の持ち味であると言えます。(MCUに)加入してすぐに、脱構築を行ったのも面白いですよね。我々はキャプテン・アメリカを1作目(『CAFA』)から全く違う方向に導くことで脱構築しました。『シビル・ウォー』ではアベンジャーズを分裂させることで脱構築しました。そして『インフィニティ・ウォー』では、全宇宙から半分の生命を消すという脱構築を行いました。

 我々のこの持ち味は、MCUの旅に合致していると思います。そして作品にとって大事なテーマを展開し、MCUの旅の一部である4作品に盛り込むことが出来たのです。

 

『エンドゲーム』では、全てが結びつくさまが見られるでしょう。

in.mashable.com(Endgame Study 09: 紛れもないマスターピース『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』 - アンティバース、アウターリムにおいても引用、クソみたいな訳文だったので一部訳改定。)

 

 

 

ルッソ兄弟はたびたび、MCUにおける自らの仕事を「脱構築」と述べている。確かに、彼らの監督作においては、世界観やヒーローらの関係性がひっくり返る出来事が主軸として描かれている。多数の作品がバトンを渡すかのように進行し、それに伴った心境や状況のデベロップメントが行われるMCUでも、ルッソ兄弟の引き出すツイストは『シビル・ウォー』におけるチーム・キャップとチーム・アイアンマンのPR、あるいは『インフィニティ・ウォー』の結末で喪失感に打ちひしがれるファンによるハイプ現象など、作品内外を巻き込んだライブ感を一層持ち込んでおり、まさにMCU的といえる。

 

『インフィニティ・ウォー』での脱構築は、結果としては「ヒーローの敗北と喪失」であった。その続編である『エンドゲーム』では、敗北後の世界という「脱構築の結果」から始まり、その後もストーリー上において次々と「脱構築」が重ねられていく。

 

 

冒頭20分*1はまさしく『インフィニティ・ウォー』の続編あるいはそのエピローグという趣で、バートン家の悲劇からトニーの遭難、スティーブの剃毛からタイトルカード、そしてサノスにいるタイタンIIに飛ぶまで、まったく前作そのままのテンポ感を継承しつつエスカレートしていく訳だが、「頭を狙わなかった」ゆえに暗い顔を浮かべるソーを筆頭にここから既に「脱構築」後の世界になってしまった感じがありありと伝わる。そういえばアバンの会議の時点でストレスからかパンをモグモグ食っている。*2

 

冒頭の農村襲撃はそのテンポ感に痺れたものだが、何にしてもサノスを即座に斬首してしまった時の衝撃ったら……。『IW』の農村でサノスが笑みを浮かべるあのラストシーンに流れる"Porch"と同じメロディが流れるのもまた象徴的。暗転からの5 YEARS LATER はまさに『ヱヴァ:Q』の14年後を彷彿とさせる跳躍でひたすらシビれた。

 

5年後の時間跳躍は、まるでこれまでMCUがこだわってきた現実世界との時空的つながりを放棄し、『インフィニティ・ウォー』公開から『エンドゲーム』公開までの1年間に観客が抱いた喪失感と公開日を切望する気持ちにおける心的時間をつなげてきたようでもある。

2023年の様子は、サノスを殺したところでストーンが無ければどうしようもない、単なるリベンジでは彼に勝利できないという現実を突き付けてくる。

 

 

理不尽に隣人が消えうせた世界、そしてヒーローらも愛する家族や仲間が消えたという「脱構築」がなされ、アベンジャーも今まで見せなかった顔を見せる。

 

ティーブはカウンセラーとして、またプレイボーイだったトニーは家庭で穏やかな日々を過ごすが、なかでもソーとハルクは、性格や容姿が今までのキャラ付けとは正反対に一変するという、まさにルッソの言うところの全く違う方向に導く脱構築」がなされている。また、後にソウルストーンの鍵を握るナターシャは、スナップで人々を、そして何よりもそれが起因してアベンジャーズがディスアッセンブルし、喪失を抱くことによって仕事以上に「家族」としてのアベンジャーズを意識することになる。

 

 

これらは結果としてサノスの完全勝利というどうしようもなくなった現実において、ようやく人々が「前に進むしかない」と思い始めたアベンジャーらに仕組まれた「脱構築」といえる。世界の状況の変化に際して、ヒトが今までの性質とは異なる顔を見せる、これがルッソ兄弟の「脱構築」であるといえる。

 

 

また、これら2023年における変化は、マーベルスタジオズ的……というよりもケヴィン・ファイギ的文脈もある。それは、彼が度々「理想の最終回」と語る『新スター・トレック』最終話「永遠への旅」'All Good Things...'に『エンドゲーム』と共通する要素があるのだ。

 

 

「永遠への旅」はパトリック・スチュワート演じるピカード艦長が超次元生命体「Q」によって過去・現在・未来を交互にタイムリープさせられ、それぞれの時間軸を奔走し、反時間上に相補する人類滅亡の危機を回避するというエピソードである。

 

時間を縦断する、というのも『エンドゲーム』的であるが、このエピソードの未来パートに共通点がある。

 

未来において、ピカード艦長は既に解散して久しいかつてのクルーと顔を合わせ、そして問題解決のために結集していく。この未来では、クルー同士結婚していたり、または昇進して艦長に就任していたりと、それぞれ別の道に進みながらも、みなそれぞれ過去の出来事によってどこか傷や他のクルーとの軋轢を持っており、まさに『エンドゲーム』の離散したアベンジャーズのようである。

f:id:SICRIM:20200427045434p:plain

未来のピカード自身、ぶどう農園で余生を送っている

 

f:id:SICRIM:20200428155322p:plain

そしてトニーとペッパーは自然の中で自家農園をして過ごしている、という隠居の共通点が…

 

f:id:SICRIM:20200429061926p:plain

サノスも農園で隠居。初見時にトニーの山荘暮らしが出た時に鏡像的になっててヤベエと興奮した

 

 

 

時間の具象化

 

 

上で語ってみた「脱構築」はいわゆる作家論になるが、イベントの進行と同時に世界がデベロップメントされていくMCUプログレッシブさにルッソの持ち味が直結しているのは言うまでもない。一方で、今作の重要な要素である時間はそれのオルタナティブの面──コンサバティブ(保守的)な「記憶」という過去への追慕──を我々に突き付ける。

 

 

行き詰まる世界にスコットが量子世界より帰還することで雰囲気が一変するというのもまた極めてMCU的である。MCUにおける父親、あるいは家庭は(家父長的なものではないということは記しておきたい)平穏の象徴としてフォーカスされている。そんな最も普通な男であるスコットが閉塞への反撃の矢となるのがカタルシスを感じる。

 

タイム泥棒計画~実行は全体的に打って変わってドタバタしたコメディ調になっているが、ルッソ兄弟が演出するということで彼らの長編初監督作『ウェルカム・トゥ・コリンウッド』を想起せずにはいられない。

 

ウェルカム トゥ コリンウッド(字幕版)

ウェルカム トゥ コリンウッド(字幕版)

  • 発売日: 2015/12/01
  • メディア: Prime Video
 

いつの間にかVOD 配信されている…!自分はDVD取り寄せました。DVDは特典映像もおすすめです。

 

 『ウェルカム・トゥ・コリンウッド』は大儲けの話を聞きつけたチンピラが強盗を計画するも、次第にポンコツな仲間が増えていきまったく上手くいかないコメディタッチのケイパー・ストーリーであり、また彼らが今まで手掛けてきた作品と同様に、多くのキャストが一つの画面で会するアンサンブルでもある。

 

『エンドゲーム』のタイム泥棒はケイパーもののオマージュ(というよりかは、やはりアメコミ映画において過去のジャンル映画をなぞらえることによってシネマティックとしての印象を確立させるファイギのプロデュース術)ではあろうものの、やはりこうしてフィルモグラフィにおいて過去の要素が総決算であるこの作品で循環しているのが興味深い。*3

 

 

タイム泥棒の本番だけでなく、計画段階のアベンジャーズについても触れておきたい。

 

 

まるで学生が駄弁るように中華やアイスクリームを食べながら「あのストーンはこの時期どこにあったっけ」と思考をだらだらと巡らせるのはファニーだったが、あれは考察を楽しむMCUオタクのそのものだった。と同時に、あれは『インフィニティ・ウォー』『エンドゲーム』のプリプロダクションで展開を過去の要素をいかに引っ張って形作るのか、頭を悩ませる製作陣のメタファーであるようにも思われる。

 

 

この写真は、昨年2019年のSDCCにおける『エンドゲーム』脚本のクリストファー・マルクスとスティーブン・マクフィーリーのトークイベントでのスライドである。

この写真を見た時、自分はいたく感動した。

これは最終決戦を脚本化する際の格闘の記録になるが、タイム泥棒の計画をするアベンジャーズの部屋の様子とそっくりそのまま。マジ最高。

f:id:SICRIM:20200509174635p:plain

オタクは製作側の私的なメタファーが盛り込まれるのが大好き

f:id:SICRIM:20200509174739p:plain

まるでテスト期間の放課後の教室のくだらない駄弁りのような、「シャワルマ」のその先の先としてもこのシークエンスは最高


 

 

 

MCUの強みはデベロップメントされる点であるとは既にやかましいレベルで述べてきたが、『エンドゲーム』の過去の再訪はご存じの通り、過去作を追ってきたファンからするとサービスそのものであった。そしてそれらは地名と年号を大きく表記することによって、この年における虚構ならびに現実の観客の記憶を喚起する。

 

NY決戦のサークル・ショットの再訪は直球の記憶喚起であったが、if的な楽しみも提供しているのがまたうれしい所だった。2012年のアベンジャーズタワーの裏側、シールド(ヒドラ)の後処理、ウガチャカはそりゃあんなバカみたいに見えるよな!といった、別のパースペクティブによる面白さがあり、「ハイルヒドラ」といったファンフィクのような妄想を堂々と具現化するその態度が憎らしい。

 

 

タイム泥棒の展開はMCU内部の思い出を再訪することによって2008年からの時の流れ、思い出を具象化し、ファンサービスとして我々に提供される。しかしただそれだけでなく、その具象化した過去との対面をヒーローらに経験させることによって更なる昇華が図られていく。

 

 

 

時間といえば、『エンドゲーム』は公開当時に結構タイムラインが複雑という意見も多くみられた。

事実まぁ確かにその通りだが、『ドラゴンボール』の未来トランクスとセルの時間分岐と同じく、未来から介入することによってその分分岐した並行世界が生まれると考えればすんなり入ってくる。(ただ『ドラゴンボール』というよりかは、コミックにおけるタイムトラベルやマルチバースの概念だろう)

 

 

エンシェント・ワンの説明がちょっと複雑化に一役買ってしまったのではという感じもある。そもそもの時点で恐らく映画を鑑賞する人が共有しているであろうタイムトラベル観(BTTF的観点)とはまた違う、実際の量子力学に即したタイムトラベル理論をバナーが話したのを、またエンシェント・ワンがこねくり回しているのでややこしい。タイムトラベルの考察はこの1年でずいぶんと全世界のオタク達のあいだで議論されてきたであろうのでそれはそちらに任せておくとして、ここでは引き続き「時間の具象化」に注目することにする。エンシェント・ワンがブルースに時間軸問答をする際に提示したビジュアルに注目したい。

 

f:id:SICRIM:20200509173619p:plain

メインタイムラインに、分岐する暗黒の未来。

 

エンシェント・ワンから見て現在は左に、そして未来は右手にある。

一方で未来から来たバナーにはその逆の方向でもある。 

 

 

以前『ドクター・ストレンジ』の時に時間軸の進行方向について、タイムストーンの使用の表象に触れたが、これは『エンドゲーム』でも共通しているようだ。

そして『ドクター・ストレンジ』は、MCUにおいて時の流れの視覚的表現をはじめてもたらした。

f:id:SICRIM:20190419024426j:plain

 

本編の最後にタイムストーンであると明かされたアガモットの眼。

ストレンジがこの力を初めてリンゴに対し使用した動作がMCUにおける時間の流れの方向を定義した。

ここにおいて、ストレンジの手の動きから見るに、時間の流れは

左から右(→)を 過去から未来

右から左(←)を 未来から過去

とされている。

スコット・デリクソンは音声解説でこのシーンの動きは直感的にワンテイクで撮影した、と語っている。

これは、例えば日本語のように右から左に展開されるものではなく、やはり英語と同じように左から右に時間が進んでいく西洋的な時空間がみなされていると捉える事ができ、それは映画の編集のタイムラインであり、そして何よりも、通常は左から右にコマが進みページをめくるコミックのそれと時間の進め方の概念が同じであることがわかる。

拙文「Endgame Study 14: 既存世界の脱却『ドクター・ストレンジ』」より(一部改訂)

https://sicrim.hatenablog.com/entry/2019/04/19/070646

 

 

また、『ドクター・ストレンジ』での我々の住む現実の次元の裏側にある暗黒次元のような恐らくレイヤー式に積層する多次元宇宙とはまた別に、我々がコミックを読むときに想像する、分岐していく並行宇宙的なマルチバースの誕生が実際に明言されたのも今後の展開的に意義深い。Earth-199999のマルチバースにおいてプライムアースが今まで我々が観てきた22作であり、まさにこの『エンドゲーム』での行動が起点となるというのもうれしいところ。

 

 

 

時間進行の表現に付随して、ここでは『エンドゲーム』がどれほどイマジナリーラインを遵守しているのかについても触れておきたい。

 

 

 

『エンドゲーム』において、そのシーケンス上のプロタゴニスト(おもにヒーローである)は徹底して画面上左に配置され、彼らは相対する右の方向(つまり、未来)を向くように設計されている。

 

 

f:id:SICRIM:20200429055923p:plain f:id:SICRIM:20200429060210p:plain

f:id:SICRIM:20200509173649p:plain f:id:SICRIM:20200509173957p:plain

 

いわゆる舞台演劇における上手と下手の概念が意識的に導入されている。職人的までの画面設計とイマジナリーラインの進行、そしてそれに沿って(過去→現在→未来)邁進するキャラクターらは、まるで上記の時空観に連動しているかのように運動し、多くの人物がフィーチャーされていても複雑化せずスルリと飲み込ませてくれる。

 

 

時間の進行を視覚的に暗示する一方で、不可逆的な過去を未来の立場から見つめる際には、未来であるスティーブは右に、過去であるペギーは左に、その時には決して交わることのない視線がガラス越しに配置されるといったケースもある。

f:id:SICRIM:20200509174332p:plain

 

また同様に、トニーが確執のあった父ハワードから聞きたかった言葉を聞く時においても、トニーは右に、ハワードは左の過去に配置される。

 

f:id:SICRIM:20200509174351p:plain

 

 

『エンドゲーム』は消え去った人々を「戻す」ことを目指す物語である。しかし、その"Just like that"の可逆性の裏では、タイム泥棒開始前のキャップのスピーチのなかで、「やり直しはない」というワードがあるように、またロケットのスナップで消えた人々は元に戻せるがフリッガの死は覆らないといったソーに激をとばしたように、不可逆性も同時に語られる。

『エンドゲーム』のタイムトラベルは、過去に介入し現在を改変するという可逆は許さない。通常不可逆なものとして、過去を彼らに突き立てる。

 

これがスティーブにとっては普通の人生という、心の底でやり直してみたい欲求が、当時のペギーとの交わらない対面で不可逆性が囚われる。また同時に不可逆な父子の仲においても、トニーは健在であるハワードとの「子どものためならなんでもしたい」という対話のなかで後の行動の兆しをつかむことになる。

 

もう一つ、ヒーローが立ち向かうべき領域を乗り越える瞬間(つまり、終点に行き着くことでもある)が炸裂する時があるが、それについてはまた後で述べることにする。

 

 

 そして、不可逆性を象徴するかのようなイベントがふたつ起こる。それが犠牲というファクターである。

 

 

犠牲というシステムの限界

公開から1年。ここまで主に時間について述べてきたが、そろそろ「納得できなかった」点、「自己犠牲」に向き合うころだ。

 

公開当時書いたふせったーで垂れ流した文句所感を原文ママで掲載する。

アベンジャーズ/エンドゲーム』に関して、どうしても納得が出来ないところが一点だけあって、何故ナターシャが命を落とすことになったのか、そこだけがどうにも自分の中で腑に落ちない。

『インフィニティ・ウォー』でキャップはヴィジョンの自死による世界の防衛の提案を「命に大小はない」として退けた。サノスは命を「大小のあるものとして」天秤にかけて他者に犠牲を強いることによって彼の望む世界の創生に成功した。

『インフィニティ・ウォー』でのこの両者のスタンスの違いは勝敗を決め、サノスは勝利し、アベンジャーズは敗北する。

この大敗からの勝利には、命に秤をかけて目的を遂行しようとするサノスの行動へのNO、命を命で救うという犠牲という存在の否定が必要不可欠だったと思っている。

で、『エンドゲーム』でナターシャは自らをソウルストーンの為に犠牲にする。結局のところ、命を差し出して命を救う行動に出た。(サノスは圧倒的な他者犠牲でありナターシャの場合自己犠牲であるという違いはある)

これが、もうどうしても受け入れられないというか、ヴォーミアに着いた時からいやいやいややめてくれ本当にマジで頼むからと冷や汗が止まらなかった。

ともかく、他にソウルストーンを手に入れる方法をなんとかして模索してほしかったなと。犠牲を強いて勝利したサノスに勝利する為に、犠牲を生むのはどうだったんだろう。

ただ、やはり先ほど書いたようにサノスは他者に犠牲を強いる。それと違ってナターシャとトニーは自らを犠牲に差し出す。ここにスタンスの違いは示されている。だけになんだか余計にモニョるところもある。

この疑問に関しては、きわめて倫理的な主題に直面せねばならないのかもしれない。しかしこのブログはあくまでもファンブログなので、ここにおいては、メインのMCU上の犠牲の表現にのみ着目し、同時期に発表された他のシリーズの「犠牲」描写と比較しつつ、なぜ「納得できなかった」のか、もしくは「納得に至る為にはどうすればいいのか」考えたい。 

 

 

 

………次のパートで! 

 

f:id:SICRIM:20200509175423j:plain

 

 本当に申し訳ない

 

 

 

 

*1:確認してみると、斬首からの暗転までほぼキッカリ20分でした。すごい。3幕構成において大体1時間ごとに場面が変わる…という時間間隔でしたが、しかし…すごい。

*2:食事というのはルッソ兄弟がキャラを演出する際によく使う。このシーンのソーにおいては過食がのちの彼の姿を仄めかすようであるが、『エンドゲーム』では冒頭のバートン一家のホットドッグの会話でかけがえのない日常を表現したり、またナターシャのサンドイッチやスコットのタコス、チーズバーガーなど(これは『アイアンマン』やロバート・ダウニーJr.のエピソードの引用であるが)、とにかくメシに話題を事欠かない。そもそもの話だが、さきの『アイアンマン』のハンバーガーのように、また例えば『ブラックパンサー』ではワカンダの街並みに実在感をもたらすにあたって屋台やそれを楽しむ国民を配置したとクーグラーは語っているように、MCU自体が食事を親しみを与えるアイテムとして広く用いていることが多い。また『ウィンター・ソルジャー』ではサムが逃亡してきたスティーブに対し「あんたら、朝食とか食うのか?」と食事をしない=浮世離れしているという認識があるかのような演出もなされている。ちなみに、スティーブ・ロジャースについては、『エンドゲーム』では2023年のハルクが登場するダイナーで水を口にするのみであり、記憶する限りではシャワルマを食べる以外に食事シーンがない(あったら指摘コメントお願いします……

*3:また、追記すると、『ウェルカム・トゥ・コリンウッド』の舞台は彼らの故郷であるクリーヴランドである。ルッソ兄弟は『シビル・ウォー』でもヒドラ将官の隠れ家としてクリーヴランドを登場させており、またトム・ホランド主演の製作中の新作『Cherry』においても同じく舞台に設定している。

スパイダーマンの報道について個人的感想

 

……なんだかデイリービューグルの記事を読んだマーベル市民のロールプレイのようで心が躍るタイトルだ

 

 

 

 

と、いうわけで、日本時間8/21日未明にあったスパイダーマンがマーベルスタジオズの手を離れるという報道に関する所感を寝る前に記しておきたい。いや春にやってきたMCUラソン日記を完結させる『エンドゲーム』と『ファー・フロム・ホーム』の感想を完走せずにこれ書くんかーいと我ながら情けなさを痛み入る程に感じるのだが(ちゃんと書いてる最中ですよ!!!)、個人的にはジェームズ・ガンの件の時に匹敵するビッグニュースであり、またジェームズ・ガンの解雇騒動に際し具体的な言語化が出来なかったという後悔が自分の中で尾を引いているため、今回、とにかく一日も立たないうちに自分の感ずるところをどうにか文字の列として記しておこうとする次第だ。

また、走り書きの為、具体的な出典を併記したいが今回はちょっと出来そうにない。自ずと雑語りになってしまうことをご容赦願いたい(メチャクチャ眠い!!!!)一応、後日また別記事にて自分の書いた内容をファクトチェックするつもり。

 

 

 

 

というわけで、まずどっちが悪いのか?という本題に踏み入ろうと思うのだが、これはディズニーも悪くて、ソニーも悪いと思う。

 

 

 

実写スパイダーマンソニーの育てたIPであることは疑いようもない。それを途中から制作費を折半するとはいえ、その長年の功績の上にある巨額の大金の半分を掠めとろうとするディズニーの姿勢は厳しい。

ただ、『アメスパ2』の興行的失敗を受けてのこの提携である。『ホームカミング』も『ファー・フロム・ホーム』の興行上の成功も、ソニーが予算を総括しているものの、言わばマーベルスタジオズの築き上げてきた功績に乗っかっているといえる(そもそもプロダクションはディズニーのチームであるマーベルスタジオズである)。

 

Deadlineによる報道では現段階のディズニーの取り分はオープニング成績の5%だとか。更にディズニーはスパイダーマンマーチャンダイジングの利益をいくつか握っている。

金を出してない(少なくともソニーほどには)のに5%もある!しかも商品化の利益もある!…のだが、MCUスパイダーマンの単独作が登場するということは、ディズニーは他社のIPに自らの稼ぎ頭であるファイギとマーベルスタジオズを貸し出している。それも2年に1回のペースで。

 

マーベルスタジオズは今や1年に3本のペースで長編映画を製作できるほどのパワーがある。そしてそのどれもが6億ドル、7億ドルを優に稼ぎ出す。オープニングの5%よりも遥かにもたらす利益は大きい。その年3回のペイデイのうち1つを他社に抑えられることになる。ディズニーにとっては、ソニーとマーベルスタジオズによるスパイダーマン映画は、続くアベンジャーズタイトルなどのクリエイティブ面はともかく、金銭的な面ではおそらく損の方が大きいのかもしれない。

 

またエンドゲームの再上映版の巻末にファー・フロム・ホームの宣伝がアタッチされるなど、ソニー自身かなりディズニーに乗っかっているところがあることは否めない。

 

 

また、ファイギとマーベルスタジオズが抜けたスパイダーマン映画をソニーが上手く調理できるのか?というところも疑問が大きい。個人的にクリエイティブコントロールにはかなり不信感がある。報道には『ヴェノム』の興行的成功がソニーにマーベル抜きでも軌道に乗れるのでは、という見方を強めたという旨の記述がある。しかしその『ヴェノム』がソニーを自信つけたというのが個人的には大問題。R指定を目指していたであろう『ヴェノム』はソニーMCU合流を見越してPG映画に落ち着いた。また、ソニー・ピクチャーズのチェアマンのトム・ロスマンが編集にかなり関与していたことが報道では仄めかされている。マーベルスタジオズはファイギのヴィジョン、そして監督それぞれのヴィジョンをなによりも重要視することによってそのクオリティの成功を収めてきたといっても過言ではない。それゆえマーベル・エンタテインメントのクリエイティブ・コミッティーの横槍を避けるため、独立しディズニー直属になったという経緯もある。対して、『ヴェノム』のMCU的になろうとするそのあり方と反してこれらの事象が示す製作態勢(エンドロールの最中に長々とスパイダーバースの宣伝映像を組み込む商売っ気のある姿勢ももちろん)はMCU的ではない。この中で、ソニーが、MCUから連なるMCUではないスパイダーマン映画を作るとなれば一体どうなるのか(といっても、ファイギが関わらないだけで設定上はMCUになる可能性はあるのだが)。

 

 

 

と同時に、ではマーベルスタジオズが横槍を避けるため直属となったディズニーがファイギの意向を最大限に配慮しているのかといえば、最近はそうではないような気もしている。代表的なのがジェームズ・ガンの一件だ。とある報道にはファイギはこのディズニーの決断には難色を示したとある。その後ガンは復帰したが、ファイギやプロデューサー陣、キャストも含めディズニー首脳陣に対しかなりの尽力があったであろうことは想像に難くない。

 

今回の次なるスパイダーマンにファイギがプロデューサーとして関わらない、というのは、果たしてファイギ自身の意向なのだろうか?

 

ソニーの公式声明では、しきりにファイギが多忙のため、またディズニーがファイギをリード・プロデューサーとしての関与を認めない、と強調している。2年スパンでの公開であったであろうと仮定すれば、SDCCで発表された公開作のない2021年の7月におそらくスパイダーマン3が入る予定であった思われる(ソニーの映画のため、また提携継続の有無が不明のためアナウンスできなかったのだろう)。ファイギがスパイダーマン3のプロデューサーをやらない、やりたくない、なんてことがあり得るのだろうか?ディズニーとファイギの関係性が徐々にこじれているんじゃないだろうか、と不安を少し覚えるところもある。

 

 

 

ファイギ自身の今回の件についての発言やディズニーの見解はおそらく今週の23日から開催されるD23で大なり小なり明かされるだろう。今回、様々な報道合戦が繰り広げられているが、現時点においてファイギがプロデューサーから降りるといったことや、ディズニーとソニーが揉めていることは確定事項で間違い無いと思う。ただ、依然交渉中であることもまた報道されている。また、今回発端のDeadlineの記事といい、公式声明の発表といい、実はソニー側の見解やそこからのソースが多い…というよりほぼソニー側からの情報だ。ディズニーのものは無いのではないか。その点においてもD23は注目すべき。

 

 

 

……と長々と書いてみたが、1ヶ月以内、下手すれば1週間以内に話が纏まるのではと個人的には思っており、実は全然不安ではない。ケヴィン・ファイギ推しとしては、やはり彼を信じねばならないし、事実彼はおそらく世界で最も信頼できる人物の一人なのだ。

 

 

 

 

 

また、この記事はソース付記のない極めて信ぴょう性の低いいち個人の見解であるため、必ずしも全てを間に受けないでほしい。気になったことはまず自分で調べてみて、そこから答えを探ってみてほしい。間違いや訂正があれば教えていただければ幸いです。

 

 

 

 

f:id:SICRIM:20190822033406j:image

 

In Feige We Trust!

 

Endgame Study 21: We're in the...『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』

Endgame Study 21

 

 

 

 

 

 

 

 

 

f:id:SICRIM:20190421145212j:plain

 

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』

 

もはや語る言葉もない。

正直、何を書けばいいのかわからない。

だがまぁ、ここまで来たので書くしかない。

 

 

『インフィニティ・ウォー』で描かれるのは、遂に全てがつながるという、これまでのファンへのご褒美と、そしてヒーローの大敗という何にも代えがたいご馳走であった。

 

この物語は、サノスを軸に回る。誰よりも強い(そして狂った)目的意識を持つサノスは、アベンジャーズという障壁を打ち破り、その目標を完遂する。

 

今作で度々持ち上がるテーマは選択だ。主人公であるサノス自身がその選択を糧に動き、最大の選択を迫られる。

スカーレット・ウィッチも、スター・ロードも、自らの愛する人を他の為に手にかける選択を迫られる。ヒーロー作品ではこのようなトロッコ問題はよく用いられる。

この時の三者の決断の末路がサノスとアベンジャーズの違いを明暗づける。

サノスは、ソウルストーンを手に入れるため、愛する娘ガモーラを躊躇もせず手にかけた。

一方、スター・ロードもスカーレット・ウィッチも、躊躇した結果、悲しみながら引き金を引くことを決断する。

しかし、その行動もむなしく、サノスの意のままになってしまう。

 

そして、ストレンジも、ストーンを守るためにはトニー達を見捨てる気でいた。

しかし、彼はトニーが今にも殺されそうになった時、ストーンを渡すこと引き換えにトニーの命を救う。

おそらくこの行動にはストレンジの見た1400万605のうちの1つに繋がるなにかがあるのだろう。サノスのスナップまでを見越した行動かもしれない。

 

ここから考えられるのは、アベンジャーズはこのトロッコ問題において、5人の為に1人を犠牲にするボタンを押してはならないということだ。

サノスは天秤の上でボタンを押す。しかし彼らはそれにNOと言わねばならない。第3の答えを見つけねばならないのだ。

 

サノスの理論は確かに理に適っているかもしれない。しかし、極論だ。

一度は勝利を許さねばならない、というのも皮肉だが、アベンジャーズは今一度この狂気の選択に対し、自らの存在を問い直さねばならない。

 

ストレンジは1つの勝利への攻略法を見た。そのストレンジは、タイタンにネビュラが来た瞬間にサノスを拿捕するというスター・ロードの作戦に沿った。ネビュラはサノスがガモーラと共にヴォーミアに向かったことを知っていて、ガモーラの不在はつまりサノスが彼女を殺したことを意味すると察した。劇中でもそう動くように、ストレンジが見た未来においてガモーラの死をスター・ロードに間接的に伝えるのはネビュラであった。

ガモーラの殺害を知ったスター・ロードは激昂し、作戦は失敗に終わってしまう。ガントレットさえ外せれば本当に勝てたかもしれない。しかし、ストレンジは怒り狂う彼を止めようとはしない。未来の敗因がこれであるなら真っ先に止めに入らねばならないのに。

 

スター・ロードのこの感情は、サノスへのNOだった。

彼らは、アベンジャーズはこのタイタン人に怒らねばならない。

何が何でも、アベンジャーズはこの凶行に反発せねばならないのだ。

 

アベンジャーズは、サノスを殺したところで勝つことはできない。

サノスの理論への反論をせねば、勝利をつかめないのだ。

 

一方、目的を完遂したサノスは、どのようにして再び鎧を纏うのか。

サノスには戦う理由がほぼない。何故また立ちはだかるのか?

 

ロッコ問題の第三の解、アベンジャーズのスタンス、サノスの戦う理由、そして……。

 

いよいよ2日後に迫った終末は実に困難な道だろう。しかし、いままで不可能を可能にしてきた彼らを信じるしかない。

 

この前人未到の11年間のフィナーレを、この目で見るしかない。