アンティバース、アウターリム

好きな作品や好きなスタジオについて書けたらいいなと思ってます

ONE YEAR LATER.../the END of the line: 『アベンジャーズ/エンドゲーム』前編(仮)

the END of the line

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アベンジャーズ/エンドゲーム』

 

 

 注記:こちらの記事はまだ未完成ですが、現在腰を据えて取り掛かれない状況&想定より遥かに長くなってしまったため、とりあえず前編と題し、今お見せ出来るところを公開することにしました。お付き合いいただけると幸いです。

 

 

 

公開からもう2ヶ月経とうとしていますが!

そこからいろんなことがありまたまたまたまた寝かしてしまっていました……。というかもう1年ですよ。えーっ。

ようやくやりますすみません…。公開時の熱や気持ちをそのままに言語化したかった気持ちはありますが、まぁこうしてしまったので、今ようやく落ち着いて語れる(それでもまとまりのない)ようになった…気がする!ので、なんとか駄文を書き散らしてみます。

 

 

本題に入る前に、とりあえず公開前後のテンションを思い出すために『アイアンマン』~『インフィニティ・ウォー』までを総ざらいしたこの激アツ予告を観ましょう。これ以降なんだかシリーズものを総決算するようなPV増えましたよね。『ダーク・フェニックス』や『トイ・ストーリー』とか。ってどれもディズニー。

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 余談になりますが、同じフォーマットで『エンドゲーム』までを取り入れた『インフィニティ・サーガ』版もあります。これはSDCC2019のホールHの冒頭で公開されたもの。こちらも要チェック。鉄を叩く音によってトリビュートされているのが泣ける。

 

 

 

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 【目次】

 

 

はじめに

さて、テンションも上げてきたところで本題に移りたい。

まず、この記事ですが……実は結構前からちょくちょく書いてたり書こうとはしてたんだけども、なんだかできなかった…。それほどまでに『エンドゲーム』は個人的に意味合いが重い(のです)。なんだか文のつながりがメチャクチャかもしれませんが何卒ご容赦願います。

 

と言い訳がましいことを言いつつも、とはいえ公開直後の熱や印象をこうしてかたちに出来なかったのは機会損失が大きいような気がする。

まぁこうして公開一年後に、まさしく指が鳴らされたような、都市が、映画館が静けさを強いられるこのようなタイミングで振り返るのもまた一興かもしれませんが…。

 

 

で、「以後」直後の自分の心境を改めて振り返りぶっちゃけると『エンドゲーム』に最初に抱いた印象は「最高の映画体験。しかし、納得がいかなかった」。

ある意味それは期待値の途方もない高さの裏付けでもあるでしょうし、前人未到の初体験に体もこころも追いついていなかった、ということも今思えばあったと思います(これは『シン・エヴァ』でもそうなるかもしれないしそうじゃないかもしれない)。

自他ともに認めるMCUファンボーイである自分でもこの抱いた感情はやはり向き合わねばならないし、それを分析することによって何らかの理解を深めることも可能でしょう。

 

 

 

という「納得できなかった」というスタンスを表明したところで、ここでは何を記すのかというと、『エンドゲーム』の初鑑賞時の印象を蘇らせることができるようにしたく思い、ある程度本編の展開構成に即した文章の開陳を、またそれでいて自分の「納得」に少しでも近づけるように筋道立った論考を、それぞれ、敗北によるBlip以後のMCU、『エンドゲーム』において重要な要素である時間にまつわること、恐らく自分のその「納得出来なかった」原因であろう犠牲という行動、そしてアッセンブル、ひいては今までのMCUとこれからのMCUについてに分けて考えたいと思います。前置きが長い!

 

 

 

 

 

 

敗北と「脱構築

 

 

(拙訳)

インタビュアー:これはあなた(ジョー・ルッソ)の四度目のMCUでの監督作です。初めての時(訳注:『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』)と今で何か心境の変化はありますか?

 

ジョー:私たち兄弟は破壊者としてMCUに参加しました。脱構築していくのは好きですし、我々の持ち味であると言えます。(MCUに)加入してすぐに、脱構築を行ったのも面白いですよね。我々はキャプテン・アメリカを1作目(『CAFA』)から全く違う方向に導くことで脱構築しました。『シビル・ウォー』ではアベンジャーズを分裂させることで脱構築しました。そして『インフィニティ・ウォー』では、全宇宙から半分の生命を消すという脱構築を行いました。

 我々のこの持ち味は、MCUの旅に合致していると思います。そして作品にとって大事なテーマを展開し、MCUの旅の一部である4作品に盛り込むことが出来たのです。

 

『エンドゲーム』では、全てが結びつくさまが見られるでしょう。

in.mashable.com(Endgame Study 09: 紛れもないマスターピース『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』 - アンティバース、アウターリムにおいても引用、クソみたいな訳文だったので一部訳改定。)

 

 

 

ルッソ兄弟はたびたび、MCUにおける自らの仕事を「脱構築」と述べている。確かに、彼らの監督作においては、世界観やヒーローらの関係性がひっくり返る出来事が主軸として描かれている。多数の作品がバトンを渡すかのように進行し、それに伴った心境や状況のデベロップメントが行われるMCUでも、ルッソ兄弟の引き出すツイストは『シビル・ウォー』におけるチーム・キャップとチーム・アイアンマンのPR、あるいは『インフィニティ・ウォー』の結末で喪失感に打ちひしがれるファンによるハイプ現象など、作品内外を巻き込んだライブ感を一層持ち込んでおり、まさにMCU的といえる。

 

『インフィニティ・ウォー』での脱構築は、結果としては「ヒーローの敗北と喪失」であった。その続編である『エンドゲーム』では、敗北後の世界という「脱構築の結果」から始まり、その後もストーリー上において次々と「脱構築」が重ねられていく。

 

 

冒頭20分*1はまさしく『インフィニティ・ウォー』の続編あるいはそのエピローグという趣で、バートン家の悲劇からトニーの遭難、スティーブの剃毛からタイトルカード、そしてサノスにいるタイタンIIに飛ぶまで、まったく前作そのままのテンポ感を継承しつつエスカレートしていく訳だが、「頭を狙わなかった」ゆえに暗い顔を浮かべるソーを筆頭にここから既に「脱構築」後の世界になってしまった感じがありありと伝わる。そういえばアバンの会議の時点でストレスからかパンをモグモグ食っている。*2

 

冒頭の農村襲撃はそのテンポ感に痺れたものだが、何にしてもサノスを即座に斬首してしまった時の衝撃ったら……。『IW』の農村でサノスが笑みを浮かべるあのラストシーンに流れる"Porch"と同じメロディが流れるのもまた象徴的。暗転からの5 YEARS LATER はまさに『ヱヴァ:Q』の14年後を彷彿とさせる跳躍でひたすらシビれた。

 

5年後の時間跳躍は、まるでこれまでMCUがこだわってきた現実世界との時空的つながりを放棄し、『インフィニティ・ウォー』公開から『エンドゲーム』公開までの1年間に観客が抱いた喪失感と公開日を切望する気持ちにおける心的時間をつなげてきたようでもある。

2023年の様子は、サノスを殺したところでストーンが無ければどうしようもない、単なるリベンジでは彼に勝利できないという現実を突き付けてくる。

 

 

理不尽に隣人が消えうせた世界、そしてヒーローらも愛する家族や仲間が消えたという「脱構築」がなされ、アベンジャーも今まで見せなかった顔を見せる。

 

ティーブはカウンセラーとして、またプレイボーイだったトニーは家庭で穏やかな日々を過ごすが、なかでもソーとハルクは、性格や容姿が今までのキャラ付けとは正反対に一変するという、まさにルッソの言うところの全く違う方向に導く脱構築」がなされている。また、後にソウルストーンの鍵を握るナターシャは、スナップで人々を、そして何よりもそれが起因してアベンジャーズがディスアッセンブルし、喪失を抱くことによって仕事以上に「家族」としてのアベンジャーズを意識することになる。

 

 

これらは結果としてサノスの完全勝利というどうしようもなくなった現実において、ようやく人々が「前に進むしかない」と思い始めたアベンジャーらに仕組まれた「脱構築」といえる。世界の状況の変化に際して、ヒトが今までの性質とは異なる顔を見せる、これがルッソ兄弟の「脱構築」であるといえる。

 

 

また、これら2023年における変化は、マーベルスタジオズ的……というよりもケヴィン・ファイギ的文脈もある。それは、彼が度々「理想の最終回」と語る『新スター・トレック』最終話「永遠への旅」'All Good Things...'に『エンドゲーム』と共通する要素があるのだ。

 

 

「永遠への旅」はパトリック・スチュワート演じるピカード艦長が超次元生命体「Q」によって過去・現在・未来を交互にタイムリープさせられ、それぞれの時間軸を奔走し、反時間上に相補する人類滅亡の危機を回避するというエピソードである。

 

時間を縦断する、というのも『エンドゲーム』的であるが、このエピソードの未来パートに共通点がある。

 

未来において、ピカード艦長は既に解散して久しいかつてのクルーと顔を合わせ、そして問題解決のために結集していく。この未来では、クルー同士結婚していたり、または昇進して艦長に就任していたりと、それぞれ別の道に進みながらも、みなそれぞれ過去の出来事によってどこか傷や他のクルーとの軋轢を持っており、まさに『エンドゲーム』の離散したアベンジャーズのようである。

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未来のピカード自身、ぶどう農園で余生を送っている

 

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そしてトニーとペッパーは自然の中で自家農園をして過ごしている、という隠居の共通点が…

 

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サノスも農園で隠居。初見時にトニーの山荘暮らしが出た時に鏡像的になっててヤベエと興奮した

 

 

 

時間の具象化

 

 

上で語ってみた「脱構築」はいわゆる作家論になるが、イベントの進行と同時に世界がデベロップメントされていくMCUプログレッシブさにルッソの持ち味が直結しているのは言うまでもない。一方で、今作の重要な要素である時間はそれのオルタナティブの面──コンサバティブ(保守的)な「記憶」という過去への追慕──を我々に突き付ける。

 

 

行き詰まる世界にスコットが量子世界より帰還することで雰囲気が一変するというのもまた極めてMCU的である。MCUにおける父親、あるいは家庭は(家父長的なものではないということは記しておきたい)平穏の象徴としてフォーカスされている。そんな最も普通な男であるスコットが閉塞への反撃の矢となるのがカタルシスを感じる。

 

タイム泥棒計画~実行は全体的に打って変わってドタバタしたコメディ調になっているが、ルッソ兄弟が演出するということで彼らの長編初監督作『ウェルカム・トゥ・コリンウッド』を想起せずにはいられない。

 

ウェルカム トゥ コリンウッド(字幕版)

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  • 発売日: 2015/12/01
  • メディア: Prime Video
 

いつの間にかVOD 配信されている…!自分はDVD取り寄せました。DVDは特典映像もおすすめです。

 

 『ウェルカム・トゥ・コリンウッド』は大儲けの話を聞きつけたチンピラが強盗を計画するも、次第にポンコツな仲間が増えていきまったく上手くいかないコメディタッチのケイパー・ストーリーであり、また彼らが今まで手掛けてきた作品と同様に、多くのキャストが一つの画面で会するアンサンブルでもある。

 

『エンドゲーム』のタイム泥棒はケイパーもののオマージュ(というよりかは、やはりアメコミ映画において過去のジャンル映画をなぞらえることによってシネマティックとしての印象を確立させるファイギのプロデュース術)ではあろうものの、やはりこうしてフィルモグラフィにおいて過去の要素が総決算であるこの作品で循環しているのが興味深い。*3

 

 

タイム泥棒の本番だけでなく、計画段階のアベンジャーズについても触れておきたい。

 

 

まるで学生が駄弁るように中華やアイスクリームを食べながら「あのストーンはこの時期どこにあったっけ」と思考をだらだらと巡らせるのはファニーだったが、あれは考察を楽しむMCUオタクのそのものだった。と同時に、あれは『インフィニティ・ウォー』『エンドゲーム』のプリプロダクションで展開を過去の要素をいかに引っ張って形作るのか、頭を悩ませる製作陣のメタファーであるようにも思われる。

 

 

この写真は、昨年2019年のSDCCにおける『エンドゲーム』脚本のクリストファー・マルクスとスティーブン・マクフィーリーのトークイベントでのスライドである。

この写真を見た時、自分はいたく感動した。

これは最終決戦を脚本化する際の格闘の記録になるが、タイム泥棒の計画をするアベンジャーズの部屋の様子とそっくりそのまま。マジ最高。

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オタクは製作側の私的なメタファーが盛り込まれるのが大好き

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まるでテスト期間の放課後の教室のくだらない駄弁りのような、「シャワルマ」のその先の先としてもこのシークエンスは最高


 

 

 

MCUの強みはデベロップメントされる点であるとは既にやかましいレベルで述べてきたが、『エンドゲーム』の過去の再訪はご存じの通り、過去作を追ってきたファンからするとサービスそのものであった。そしてそれらは地名と年号を大きく表記することによって、この年における虚構ならびに現実の観客の記憶を喚起する。

 

NY決戦のサークル・ショットの再訪は直球の記憶喚起であったが、if的な楽しみも提供しているのがまたうれしい所だった。2012年のアベンジャーズタワーの裏側、シールド(ヒドラ)の後処理、ウガチャカはそりゃあんなバカみたいに見えるよな!といった、別のパースペクティブによる面白さがあり、「ハイルヒドラ」といったファンフィクのような妄想を堂々と具現化するその態度が憎らしい。

 

 

タイム泥棒の展開はMCU内部の思い出を再訪することによって2008年からの時の流れ、思い出を具象化し、ファンサービスとして我々に提供される。しかしただそれだけでなく、その具象化した過去との対面をヒーローらに経験させることによって更なる昇華が図られていく。

 

 

 

時間といえば、『エンドゲーム』は公開当時に結構タイムラインが複雑という意見も多くみられた。

事実まぁ確かにその通りだが、『ドラゴンボール』の未来トランクスとセルの時間分岐と同じく、未来から介入することによってその分分岐した並行世界が生まれると考えればすんなり入ってくる。(ただ『ドラゴンボール』というよりかは、コミックにおけるタイムトラベルやマルチバースの概念だろう)

 

 

エンシェント・ワンの説明がちょっと複雑化に一役買ってしまったのではという感じもある。そもそもの時点で恐らく映画を鑑賞する人が共有しているであろうタイムトラベル観(BTTF的観点)とはまた違う、実際の量子力学に即したタイムトラベル理論をバナーが話したのを、またエンシェント・ワンがこねくり回しているのでややこしい。タイムトラベルの考察はこの1年でずいぶんと全世界のオタク達のあいだで議論されてきたであろうのでそれはそちらに任せておくとして、ここでは引き続き「時間の具象化」に注目することにする。エンシェント・ワンがブルースに時間軸問答をする際に提示したビジュアルに注目したい。

 

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メインタイムラインに、分岐する暗黒の未来。

 

エンシェント・ワンから見て現在は左に、そして未来は右手にある。

一方で未来から来たバナーにはその逆の方向でもある。 

 

 

以前『ドクター・ストレンジ』の時に時間軸の進行方向について、タイムストーンの使用の表象に触れたが、これは『エンドゲーム』でも共通しているようだ。

そして『ドクター・ストレンジ』は、MCUにおいて時の流れの視覚的表現をはじめてもたらした。

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本編の最後にタイムストーンであると明かされたアガモットの眼。

ストレンジがこの力を初めてリンゴに対し使用した動作がMCUにおける時間の流れの方向を定義した。

ここにおいて、ストレンジの手の動きから見るに、時間の流れは

左から右(→)を 過去から未来

右から左(←)を 未来から過去

とされている。

スコット・デリクソンは音声解説でこのシーンの動きは直感的にワンテイクで撮影した、と語っている。

これは、例えば日本語のように右から左に展開されるものではなく、やはり英語と同じように左から右に時間が進んでいく西洋的な時空間がみなされていると捉える事ができ、それは映画の編集のタイムラインであり、そして何よりも、通常は左から右にコマが進みページをめくるコミックのそれと時間の進め方の概念が同じであることがわかる。

拙文「Endgame Study 14: 既存世界の脱却『ドクター・ストレンジ』」より(一部改訂)

https://sicrim.hatenablog.com/entry/2019/04/19/070646

 

 

また、『ドクター・ストレンジ』での我々の住む現実の次元の裏側にある暗黒次元のような恐らくレイヤー式に積層する多次元宇宙とはまた別に、我々がコミックを読むときに想像する、分岐していく並行宇宙的なマルチバースの誕生が実際に明言されたのも今後の展開的に意義深い。Earth-199999のマルチバースにおいてプライムアースが今まで我々が観てきた22作であり、まさにこの『エンドゲーム』での行動が起点となるというのもうれしいところ。

 

 

 

時間進行の表現に付随して、ここでは『エンドゲーム』がどれほどイマジナリーラインを遵守しているのかについても触れておきたい。

 

 

 

『エンドゲーム』において、そのシーケンス上のプロタゴニスト(おもにヒーローである)は徹底して画面上左に配置され、彼らは相対する右の方向(つまり、未来)を向くように設計されている。

 

 

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いわゆる舞台演劇における上手と下手の概念が意識的に導入されている。職人的までの画面設計とイマジナリーラインの進行、そしてそれに沿って(過去→現在→未来)邁進するキャラクターらは、まるで上記の時空観に連動しているかのように運動し、多くの人物がフィーチャーされていても複雑化せずスルリと飲み込ませてくれる。

 

 

時間の進行を視覚的に暗示する一方で、不可逆的な過去を未来の立場から見つめる際には、未来であるスティーブは右に、過去であるペギーは左に、その時には決して交わることのない視線がガラス越しに配置されるといったケースもある。

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また同様に、トニーが確執のあった父ハワードから聞きたかった言葉を聞く時においても、トニーは右に、ハワードは左の過去に配置される。

 

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『エンドゲーム』は消え去った人々を「戻す」ことを目指す物語である。しかし、その"Just like that"の可逆性の裏では、タイム泥棒開始前のキャップのスピーチのなかで、「やり直しはない」というワードがあるように、またロケットのスナップで消えた人々は元に戻せるがフリッガの死は覆らないといったソーに激をとばしたように、不可逆性も同時に語られる。

『エンドゲーム』のタイムトラベルは、過去に介入し現在を改変するという可逆は許さない。通常不可逆なものとして、過去を彼らに突き立てる。

 

これがスティーブにとっては普通の人生という、心の底でやり直してみたい欲求が、当時のペギーとの交わらない対面で不可逆性が囚われる。また同時に不可逆な父子の仲においても、トニーは健在であるハワードとの「子どものためならなんでもしたい」という対話のなかで後の行動の兆しをつかむことになる。

 

もう一つ、ヒーローが立ち向かうべき領域を乗り越える瞬間(つまり、終点に行き着くことでもある)が炸裂する時があるが、それについてはまた後で述べることにする。

 

 

 そして、不可逆性を象徴するかのようなイベントがふたつ起こる。それが犠牲というファクターである。

 

 

犠牲というシステムの限界

公開から1年。ここまで主に時間について述べてきたが、そろそろ「納得できなかった」点、「自己犠牲」に向き合うころだ。

 

公開当時書いたふせったーで垂れ流した文句所感を原文ママで掲載する。

アベンジャーズ/エンドゲーム』に関して、どうしても納得が出来ないところが一点だけあって、何故ナターシャが命を落とすことになったのか、そこだけがどうにも自分の中で腑に落ちない。

『インフィニティ・ウォー』でキャップはヴィジョンの自死による世界の防衛の提案を「命に大小はない」として退けた。サノスは命を「大小のあるものとして」天秤にかけて他者に犠牲を強いることによって彼の望む世界の創生に成功した。

『インフィニティ・ウォー』でのこの両者のスタンスの違いは勝敗を決め、サノスは勝利し、アベンジャーズは敗北する。

この大敗からの勝利には、命に秤をかけて目的を遂行しようとするサノスの行動へのNO、命を命で救うという犠牲という存在の否定が必要不可欠だったと思っている。

で、『エンドゲーム』でナターシャは自らをソウルストーンの為に犠牲にする。結局のところ、命を差し出して命を救う行動に出た。(サノスは圧倒的な他者犠牲でありナターシャの場合自己犠牲であるという違いはある)

これが、もうどうしても受け入れられないというか、ヴォーミアに着いた時からいやいやいややめてくれ本当にマジで頼むからと冷や汗が止まらなかった。

ともかく、他にソウルストーンを手に入れる方法をなんとかして模索してほしかったなと。犠牲を強いて勝利したサノスに勝利する為に、犠牲を生むのはどうだったんだろう。

ただ、やはり先ほど書いたようにサノスは他者に犠牲を強いる。それと違ってナターシャとトニーは自らを犠牲に差し出す。ここにスタンスの違いは示されている。だけになんだか余計にモニョるところもある。

この疑問に関しては、きわめて倫理的な主題に直面せねばならないのかもしれない。しかしこのブログはあくまでもファンブログなので、ここにおいては、メインのMCU上の犠牲の表現にのみ着目し、同時期に発表された他のシリーズの「犠牲」描写と比較しつつ、なぜ「納得できなかった」のか、もしくは「納得に至る為にはどうすればいいのか」考えたい。 

 

 

 

………次のパートで! 

 

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 本当に申し訳ない

 

 

 

 

*1:確認してみると、斬首からの暗転までほぼキッカリ20分でした。すごい。3幕構成において大体1時間ごとに場面が変わる…という時間間隔でしたが、しかし…すごい。

*2:食事というのはルッソ兄弟がキャラを演出する際によく使う。このシーンのソーにおいては過食がのちの彼の姿を仄めかすようであるが、『エンドゲーム』では冒頭のバートン一家のホットドッグの会話でかけがえのない日常を表現したり、またナターシャのサンドイッチやスコットのタコス、チーズバーガーなど(これは『アイアンマン』やロバート・ダウニーJr.のエピソードの引用であるが)、とにかくメシに話題を事欠かない。そもそもの話だが、さきの『アイアンマン』のハンバーガーのように、また例えば『ブラックパンサー』ではワカンダの街並みに実在感をもたらすにあたって屋台やそれを楽しむ国民を配置したとクーグラーは語っているように、MCU自体が食事を親しみを与えるアイテムとして広く用いていることが多い。また『ウィンター・ソルジャー』ではサムが逃亡してきたスティーブに対し「あんたら、朝食とか食うのか?」と食事をしない=浮世離れしているという認識があるかのような演出もなされている。ちなみに、スティーブ・ロジャースについては、『エンドゲーム』では2023年のハルクが登場するダイナーで水を口にするのみであり、記憶する限りではシャワルマを食べる以外に食事シーンがない(あったら指摘コメントお願いします……

*3:また、追記すると、『ウェルカム・トゥ・コリンウッド』の舞台は彼らの故郷であるクリーヴランドである。ルッソ兄弟は『シビル・ウォー』でもヒドラ将官の隠れ家としてクリーヴランドを登場させており、またトム・ホランド主演の製作中の新作『Cherry』においても同じく舞台に設定している。